カラフルな世界、モノクロの日常

鉄道、城、サッカーなど、自分が興味を持っていることを思うがままに書いています。yahooブログ終了に伴い、はてなブログに引越ししてきました。

訪城記 ~伊奈氏屋敷~ 【202310.7】

大宮から新幹線に沿って北上するニューシャトルという新交通システムがあります。

新幹線の高架橋と一体で整備され、全長12.7km。新幹線が通過する地域の見返りとして建設されました。


上越新幹線東北新幹線が分岐するあたりにある丸山で下車しました。

 

 

目的地は伊奈氏屋敷跡。

治水・利水工事で有名な伊奈忠次の陣屋跡です。

ニューシャトルの車庫を越えたところ、駅の最寄りは裏門にあたります。

 

この辺りは、発掘調査で障子堀が発見されたところ。現在は埋め戻されて遺構を見ることはできません。

 

堀底につくられた遊歩道を通って南へ。

 

土塁の上にある頭殿権現社は櫓のように見えます。

 

南側は原市沼に面しています。

 

頭殿権現社の東側の辺りが屋敷の中心部だったようです。

 

ただ、城内は民有地で耕作が進み、当時の遺構はわかりにくくなっています。
屋敷跡の敷地は南北に長い楕円形で、屋敷というには広大。


原市沼という湿地帯を要害として利用しており、周縁部に自然地形を多く残していることを考えると、もともとあった中世城郭を利用して築かれたと考えるのが自然でしょうか?

 


二の丸跡。

 

表門は南側にありました。


東側の堀に沿って進みます。

 

堀底道。この辺りが最も、城郭としての雰囲気が残っているところかと思います。

 

遊歩道をさらに北へ。



裏門跡に戻ってくるまで、外縁部を一周して1時間半ほどかかりました。

 

時節柄、蚊の大軍に難儀しました。

 

 

 

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訪城記 ~上田城~ 【2023.9.30】

千曲川の段丘崖に拠って築かれた上田城

徳川の大軍を2度退けたことで、真田氏の城として認識されています。

 

実際、始発の新幹線で降り立った上田は、圧倒的な「真田推し」。

 

 

ただ、真田氏の上田城関ヶ原の戦い後破却されており、真田信之は三の丸の跡地に新たに居館を築きました。

現在の上田高校がその跡地。

真田氏転封後も使用され、堀と土塁、表門と塀が残ります。

 

そしてその北側に古屋敷と絵図に記載のある屋敷跡があります。

現在は上田市清明小学校になっています。

 

 

二の丸の堀端、東虎口に出ました。

 

城内に入る前に、堀底に降りてみます。

 

堀底は現在遊歩道になっていますが、1972年までは上田交通真田傍陽線が走っていました。

上田と旧真田町の真田と傍陽を結んでいた15.9kmのローカル私鉄。傍陽から松代を結ぶという計画もあったようです。

 

ホームのように見えるのは公園前駅跡です。

橋には碍子が残っています。



遊歩道を通って、城の北側へ。

 

陸上競技場は堀の跡を利用したもの。

巨大な堀は矢出沢川の旧河道を利用した結果だと思います。

 

水位調整に使われたのか、石樋が残っています。

 

土橋の先にある北虎口は枡形の石垣が残ります。

仙石忠政による再建の際に虎口付近には石垣が築かれましたが、二の丸の虎口で石垣が残るのは北虎口だけです。

 

本丸の堀端に出ました。

北東隅が欠けているのは、鬼門除けです。

 

本丸東虎口。

南櫓、北櫓の2棟の二重櫓は、市内の遊郭に使用されていたものを1949年に移築復元されたもの。櫓門は1994年の復元です。

 

本丸内は真田神社があって手狭な印象。

 

本丸北側は土塁が巡ります。

 

本丸には7棟の二重櫓がありましたが、虎口付近の4棟以外は土塁の上に直接建てられていたとのことです。

 

西櫓と西虎口。櫓台以外の石垣が失われています。

 

 

二の丸西虎口跡。他の虎口と同様、石垣が築かれ、枡形になっていました。

 

野球場も堀跡を利用したもの。先ほどの陸上競技場と合わせてみると、その巨大さに驚かされます。

 

西虎口を出たところが小泉曲輪。遺構はほぼありません。

 

さらに西側にある上田高校のグラウンドも堀の跡です。

 

堀跡の西端には人工的な土手のような地形がありました。谷をせき止めて堀にするために築かれたものでしょうか?

 

最後に尼ヶ淵の崖下から。

千曲川の河道が変化して、現在は公園と駐車場になっていますが、当時は千曲川の分流が石垣を洗っていました。

 

自然の崖と石垣が複雑に組み合わさっていますが、もろく崩れやすい崖を補強した結果とのことです。

 

 

上田駅に戻って、10:25発の草津温泉行のバスに乗車します。

 

真田を通って鳥居峠を越えるこのバスは、上田から岩櫃へ抜ける、真田氏が最も重視した街道そのもの。

 

古に思いを馳せます。

 

 

 

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訪城記 ~飛山城~ 【2023.9.16】

ライトレールの終点、芳賀・高根沢工業団地で折り返して、飛山城跡で下車しました。

 

周囲は田畑が広がる農村風景。近代的なLRTとの対比が不思議な風景を作っています。

 

駅を出て北へ。

飛山城跡に建つガイダンス施設「とびやま歴史体験館」へは、東側の道を案内されますが、google mapを見ると、城の南側を通る道があるみたいなので、そちらを選択しました。

 

件の道は未舗装でした。

 

おっかなびっくり登っていくと、堀底に導かれました。

 

櫓台が張り出し、見通しを阻みます。



飛山城はとても不思議な縄張だと思います。

鬼怒川沿いの河岸段丘という占地は理に適ったものですが、段丘上を直線的に区切っいるのがヘンな感じ。

普通は地形の凸凹を利用して曲輪を作っていくと思うのですが、段丘の上部が平らだったことによるものでしょうか?

 

また、外郭部に一定間隔で張り出した櫓台も変な感じです。5か所ある櫓台ですが、虎口に対する横矢として機能しているのは大手の東側、搦手の南側とも1か所ずつしかありません。

しかも大手側は虎口まで20m以上あって、横矢としては不十分な感じ。弓矢なら届くとは思いますが。


「とびやま歴史体験館」を見学。無料でしたので、入館料代わりに御城印を購入しました。

 

 

城跡は1号から6号まで6本の横堀で、7つの曲輪に分かれています。

 

最も外側の曲輪Ⅶは、5号堀に挟まれて細長いL字になっています。

 

大手につながる東側には、小さな角馬出があります。

土塁、堀ともささやかですが、当時はもっと険しかったのでしょうか?

 

南側の土橋。搦手にあたります。

 

5号堀の内側の曲輪Ⅵは城内最大の曲輪です。

 

飛山城は、鎌倉時代後期に芳賀高俊によって築かれたと伝わりますが、平安時代には、烽火をあげる施設「烽家」があり、様々な時代の遺構が重なり合っているのが特徴。

発掘調査の成果を踏まえていくつかの建物が推定復元されており、古代建物は烽家の施設を推定したものです。

 

ちょうど屋根の吹き替え工事中でした。。。

 

竪穴建物は、半地下構造になっており、貯蔵庫として使用されたと推定されています。

 

4号堀を渡ります。横矢が掛かるよう、堀に対して斜めに橋がかかります。

 

曲輪Ⅳです。掘立柱の建物が5棟推定復元されています。

 

曲輪Ⅲへ2号堀を渡ります。

 

さらに段丘崖に近いところに、曲輪Ⅰ、Ⅱがありますが、1号堀、3号堀が復元されていないので、わかりにくい。

かすかに凸凹で判別できるでしょうか?

 

これまでの直線的な堀と違って、1号堀、3号堀は地形に沿って作られているように見え、曲輪Ⅰ、Ⅱも他の曲輪に比べて小さなものです。

というわけで、築城当初に曲輪Ⅰ、Ⅱが築かれ、その後拡張される中で、烽家の遺構を取り込んだという想像をしましたがいかがでしょうか?

 

また、6号堀に規則的に作られた櫓台も相変わらず気になります。

塁線に横矢をかけるという発想は理解できますが、弓の扱いにはそれなりの熟練が必要ということを考えると、熟練者を櫓台に万遍なく配置するには人材的に厳しいようにも思えます。

 

築城者は、どのような戦闘を想定していたのでしょうか?

 

 

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訪城記 ~金沢城~ 【2023.8.12】

金沢に宿泊して翌8月12日、まずは北陸鉄道浅野川線

 

その後、金沢城に向かって歩きます。

 


1875年に完成したという神門が独特な尾山神社

もともとは金谷出丸という金沢城内堀に面した馬出状の曲輪でした。

 

本殿の裏には、2020年に復元された鼠多門・鼠多門橋があります。

海鼠壁という他の建造物と共通の意匠を持ちますが、目地が黒漆喰となることで独特の黒っぽい外観をつくりだしています。

 

鼠多門をくぐると玉泉院丸。庭園は2015年に整備・復元されたものです。

二の丸を経て新丸へ。

 

大手口付近から河北門を望みます。

 

2011年に復元された河北門。

 

三の丸に入ると、菱櫓から五十間長屋・橋爪門続櫓と続く巨大な櫓群。前田家百万石を象徴する風景です。

 

橋爪門をくぐって二の丸へ。

 

1631年の寛永の大火後、中枢機能が本丸から移転し、広大な二の丸御殿が建てられていました。

現在、発掘調査が進行中。復元の計画があるようです。

 

本丸と二の丸の間にある空堀。現在堀底は、玉泉院丸から二の丸へ抜ける通路にもなっています。

 

三十間長屋は重要文化財です。工事中でした。

 

城の中枢が二の丸に移ってからは、本丸はほぼ放置されていたようです。

樹木が茂り、三階櫓などの遺構も判別できません。

 

戌亥櫓跡から二の丸を望みます。

 

辰巳櫓跡。

 

丑寅櫓台は、城内最古級の石垣とのこと。

石材の加工が不十分で野面積みに近く、勾配も緩い。城内の他の石垣とは雰囲気が異なっています。

 

そして石川門。金沢城で必ず紹介される枡形門は重要文化財

百間堀に面し、搦手を守っています。

 

 

最後に兼六園へ。

 

舌状に張り出した台地の先端部に位置する金沢城にあって、台地続きとなる南東側は縄張上の弱点です。

百間堀という巨大な堀切でその弱点を補うだけではあきたらず、さらに外郭としてつくられたのが兼六園です。

日本三名園として名高い日本庭園ですが、金沢城の一部としてとらえると違ったことが見えてきそうです。

 

 

 

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訪城記 ~和田山城~ 【2023.8.11】

敦賀に宿泊して、8月11日です。

2024年春の北陸新幹線敦賀延伸を控えた敦賀駅。この景色も大きく変化してしまうのでしょうね。

 

6:30発の福井行きでスタートです。

 

金沢行きに乗り継いで、能美根上駅で下車しました。

 

 

9:22発の「のみバス」観光ルートに乗車。能美ふるさとミュージアムで下車しました。

 

博物館の背後は、独立した丘陵になっており、山全体が史跡公園になっています。

メインは和田山古墳群です。

いずれも直径が10m弱。同じような大きさの古墳が山の稜線に沿って一列に並んでいます。

 

 

そして、丘陵の南端部に和田山城があります。

全山を城郭化することはできなかったみたいで、城域は丘陵の1/4ほどにとどまっています。

 

古墳を利用した櫓台を正面に、巨大な横堀で稜線を遮断しています。

 

その横堀により通路は限定され、櫓台からの横矢にさらされながら、狭い道を進むことになります。

 

虎口は、二の丸と本丸の間につくられています。

 

先ほどの櫓台の上から。横堀の対岸に続く虎口への通路を完全に掌握できる位置です。

 

本丸への通路も正面の空堀により通路が限定されています。

先ほどの虎口と合わせて、とても技巧的な縄張という印象。

 

本丸。

 

二の丸側は土塁で囲まれており、城に迫る敵兵の動きをすべて把握することができます。

防衛の中心として弓や鉄砲があつめられ、火点として機能したものと思います。

 

本丸の中心には古墳を利用した物見台があります。
近世城郭風に言えば、独立式天守台という感じでしょうか?

 

加賀平野が一望の下に。このままでも眺望は十分ですが、櫓を立てればもっと遠くまで見えそう。


城の西側斜面は腰曲輪。

 

 

ふるさと交流センターまで歩いて、のみバスに乗車しました。

 

 

 

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