徳川の大軍を2度退けたことで、真田氏の城として認識されています。
実際、始発の新幹線で降り立った上田は、圧倒的な「真田推し」。
ただ、真田氏の上田城は関ヶ原の戦い後破却されており、真田信之は三の丸の跡地に新たに居館を築きました。
現在の上田高校がその跡地。
真田氏転封後も使用され、堀と土塁、表門と塀が残ります。
そしてその北側に古屋敷と絵図に記載のある屋敷跡があります。
二の丸の堀端、東虎口に出ました。
城内に入る前に、堀底に降りてみます。
堀底は現在遊歩道になっていますが、1972年までは上田交通真田傍陽線が走っていました。
上田と旧真田町の真田と傍陽を結んでいた15.9kmのローカル私鉄。傍陽から松代を結ぶという計画もあったようです。
ホームのように見えるのは公園前駅跡です。
橋には碍子が残っています。
遊歩道を通って、城の北側へ。
陸上競技場は堀の跡を利用したもの。
巨大な堀は矢出沢川の旧河道を利用した結果だと思います。
水位調整に使われたのか、石樋が残っています。
土橋の先にある北虎口は枡形の石垣が残ります。
仙石忠政による再建の際に虎口付近には石垣が築かれましたが、二の丸の虎口で石垣が残るのは北虎口だけです。
本丸の堀端に出ました。
北東隅が欠けているのは、鬼門除けです。
本丸東虎口。
南櫓、北櫓の2棟の二重櫓は、市内の遊郭に使用されていたものを1949年に移築復元されたもの。櫓門は1994年の復元です。
本丸内は真田神社があって手狭な印象。
本丸北側は土塁が巡ります。
本丸には7棟の二重櫓がありましたが、虎口付近の4棟以外は土塁の上に直接建てられていたとのことです。
西櫓と西虎口。櫓台以外の石垣が失われています。
二の丸西虎口跡。他の虎口と同様、石垣が築かれ、枡形になっていました。
野球場も堀跡を利用したもの。先ほどの陸上競技場と合わせてみると、その巨大さに驚かされます。
西虎口を出たところが小泉曲輪。遺構はほぼありません。
さらに西側にある上田高校のグラウンドも堀の跡です。
堀跡の西端には人工的な土手のような地形がありました。谷をせき止めて堀にするために築かれたものでしょうか?
最後に尼ヶ淵の崖下から。
千曲川の河道が変化して、現在は公園と駐車場になっていますが、当時は千曲川の分流が石垣を洗っていました。
自然の崖と石垣が複雑に組み合わさっていますが、もろく崩れやすい崖を補強した結果とのことです。
上田駅に戻って、10:25発の草津温泉行のバスに乗車します。
真田を通って鳥居峠を越えるこのバスは、上田から岩櫃へ抜ける、真田氏が最も重視した街道そのもの。
古に思いを馳せます。
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