カラフルな世界、モノクロの日常

鉄道、城、サッカーなど、自分が興味を持っていることを思うがままに書いています。yahooブログ終了に伴い、はてなブログに引越ししてきました。

きたながせ【駅名しりとり357】

北長瀬 (JR西日本

 

 

 

2005年に開業した若い駅。

岡山貨物ターミナルの西端にあって、本線の間に引上線があるため、ホームの配置が平行にならず、ハの字に開いています。武蔵野線三郷駅や吉川駅と同じような感じでしょうか。

駅の南側は岡山操車場の跡地を利用した街づくりが行われました。岡山駅から5分程度と近いこともあって利用客は順調に伸びているようです。

 

 

 

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訪城記 ~江戸崎城~ 【2024.3.16】

前日飲み会だったため目覚ましをかけずに寝たのですが、朝早く目が覚めてしまったのでお出かけすることにしました。

 

松戸8:31発の電車に乗り、我孫子、成田と乗り継いで、下総神崎駅に降り立ちました。

 

10:30発の桜東バスに乗り換えます。

翌3月17日は、酒蔵まつりでバスが運休するとのこと。危ないところでした。

 

バスに揺られること約40分。旧江戸崎町の中心部に近い浜町というバス停で下車しました。

 

 

乗り換えのバスまで1時間半ほどあるので、その間に江戸崎城跡を散策します。

 

江戸崎城は、稲敷台地の南端、舌状に張り出した台地につくられ、麓に水堀を巡らした連郭式の城でした。現在、水堀はすべて埋められてしまっていますが、ところどころに遺構が認められます。
戦国時代は美濃の守護土岐氏の一族、土岐原氏の支配下にあったものの、小田原の役の年に佐竹氏の攻撃を受け落城。
その後、江戸崎城には佐竹義重の次男芦名盛重が入ります。現在の町割りはこの時に整えられたようです。
江戸時代に入るとこのあたりは天領となり、江戸崎城も廃城になった由。


まず向かったのは瑞祥院。臨済宗妙心寺派の寺院で、創建は南北朝時代の1352年と伝わります。

 

本堂背後の山は羅漢山と呼ばれています。尾根状になっており、いかにも城跡っぽい地形ですが、後世の改変が著しい中、どこまで旧状を残しているのかよくわかりません。

 

尾根の先端部には金比羅堂。物見櫓のようにも見えます。

 

 

南側の鹿島神社は二の丸跡です。

 

北側に巨大な土塁が残っています。


二の丸の南半分は江戸崎小学校の校庭になっています。

 

江戸崎小学校。二の丸があった台地を造成してつくられました。

校舎より高い校庭がかすかな名残です。

 

 

そして、最後に本丸へ。

かつての堀底が道路になっています。

 

本丸の南側の曲輪です。

縄張図によっては二の丸と記載されているものもありますが、台地の先端部を守る笹曲輪とでも呼ぶべき曲輪かと思います。

 

本丸は方100mほどでしょうか。

中央には畑があってなんとなく私有地っぽい雰囲気。北側には土塁が残っているようですが、深入りはしないようにしました。

 

そして、片隅には城山稲荷がありました。

朽ちてなくなってしまいそうな小さな祠ですが、由来を見ると意外に歴史があるみたい。

 

 

かつては山麓部を水堀が囲んでいたようですが、すべて埋められているほか、各曲輪も遺構の大部分は消滅しています。

点在する遺構は多くはなく、ゆっくりめぐっても1時間ほど。

次のバスまで時間がありますが、早めにバス停に向かうことにしました。

 

 

 

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訪城記 ~月山富田城~ 【2024.3.10】

1週間の島根出張を終えて、3月10日は移動日です。

昼過ぎの飛行機を予約していましたので、それまでの間に寄り道しようということで、松江7:24発の鳥取行きに乗車しました。

 

安来で下車。

 

8:02発のイエローバスに乗り換えて安来市立病院で下車しました。

 

 

今回の目的地は月山富田城です。

外堀となっていた飯梨川は、当時は今より西側を流れていました。

1666年の洪水により河道が変わり、城下町は川の下に。1970年代の河川改修の際に発掘調査が行われ、屋敷や家屋跡や陶磁器などの生活用具が出土、富田川河床遺跡と呼ばれています。


月山富田城は山陰地方の戦国大名尼子氏の主城としてよく知られています。

1565年、毛利氏に包囲され籠城するも、翌年に落城。毛利氏のものとなります。

1600年には毛利氏に代わって堀尾氏が入ります。1611年に松江城に移るまで出雲・隠岐23万5千石の主城として使われました。

現在の姿は堀尾氏の改修によるもの。尼子氏時代からかなりの曲輪が放棄されたようですが、それでも山麓から山上まで全山を要塞化した巨大さに圧倒されます。

 

 

安来市立歴史資料館の裏手から登ります。

谷筋を登る道は両側の曲輪から常に挟撃されており、防御力の高さに圧倒されます。

 

北側に突出した馬乗馬場と呼ばれる曲輪です。遠くに中海を望みます。

 

馬乗馬場から、千畳平を見たところ。

近年の遺跡整備のおかげで、切岸と腰曲輪がよくわかります。

 

千畳平。城の正面にあたり、見栄えも考慮されたのか堀尾氏時代に石垣が築かれました。

 

太鼓壇には山中鹿介幸盛の銅像があります。逆光で真っ黒ですが。。。

1569年、尼子氏の再興のため挙兵。尼子氏の旧臣を集めつつ月山富田城を攻め、一時は出雲全域まで支配地域を広げるものの敗北しました。

その後、織田軍の傘下に入って上月城に拠るなど活動を続けますが、毛利軍に降伏。毛利輝元の下に移送中の1578年に謀殺されました。

「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話が有名で、「修身」の教科書に必ずとりあげられていました。

 

奥書院。戦没者慰霊碑が建っています。

 

花ノ壇には主屋と侍所が復元されています。

 


そして実質的な本丸であった山中御殿平に到着します。

菅谷口、御子守口、塩谷口といった虎口からの道はすべてここに集約します。

 

この虎口は菅谷口。

 

3000㎡を誇る巨大な曲輪で、御殿があった城の中枢です。四方を囲む石垣は堀尾氏時代のものと思います。

北側が大きくえぐられているのは破城の結果とのこと。地形的に巨大な枡形があったのではないでしょうか?

 

背後には絶壁が立ちはだかり、そこを七曲りと呼ばれる登山道がクネクネと続いています。

高低差は100mくらいはあると思います。実質的には山中御殿平に対する詰の城というべきでしょうか?

近年整備され登りやすくなりました。が、かなりきついです。

 

 

登りきった正面には三の丸の石垣。この石垣は山麓からもよく見えました。

 

足元には山中御殿などこれまでに通ってきた曲輪群。そして広瀬の町並みと、はるか遠くに中海を望みます。

 

三の丸と一段上がったところに二の丸。

 

本丸との間には巨大な堀切があります。

 

そして本丸。月山の山頂で、勝日高守神社があります。

 

南端から先はすぐに崖。

 

 

山中御殿平に戻って、最後に大土塁を見ます。

 

土塁には虎口があって土橋が続いていますが、わざわざ土塁を切っている割には横矢が甘く不自然。当時は土塁を回り込むように虎口があったのではないでしょうか?

 

この先も尾根に沿って曲輪が連なっています。

 

御子守口へ続く谷筋。

 

 

歴史資料館を見学したのち、目の前にある月山入口というバス停から11:20発のバスに乗車します。

月山富田城へはこのバス停が至近ですが、バスが来るのは日中のみで本数も少なめ。時間が合わなければ安来市立病院から歩くのが正解のようです。徒歩5分ほどですし。



 

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しものせき【駅名しりとり356】

下関 (JR西日本

 

 

 

本州最西端の鉄道駅にして、九州の玄関口。

また、1945年までは関釜連絡船が接続し、朝鮮半島からシベリア鉄道を通ってヨーロッパに繋がる欧亜連絡も担っていました。

駅の開業は1901年と古く、当初は山陽鉄道という私設鉄道でした。山陽鉄道は日本で初めて長距離急行、特急(最急行)を運行し、食堂車や寝台車などを導入した鉄道会社として知られています。

2009年の寝台特急富士・はやぶさ」廃止以降優等列車の発着がなくなり、かつての面影を残す長大なホームは持て余し気味。普通列車も当駅で系統分離され、長距離を走破する列車は削減される一方です。特に九州側は門司や小倉を終着とする列車がほとんどになりました。

もっともこれは交直流電車の新製を避け、虎の子の415系を温存、集約するための苦肉の策という感じ。残存する1500番台の車齢は40年弱ですので、しばらくは使い続けるものと思いますが、近いうちに置換を検討せざるを得なくなるのは間違いありません。JR西日本521系をベースに開発、導入するのが手っ取り早そうに見えるのですが・・・

 

 

 

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国鉄型特急電車最後の定期運用、381系「やくも」乗り納め

381系の引退が迫っています。

273系の運行開始が2024年4月6日に迫り、6月15日には全運用が置き換えられることが発表されました。

いわゆる葬式鉄の趣味はないので、おととしのGWで乗り納めのつもりでした。


しかし、3月になってたまたま山陰地方へ出張に。

3月3日の移動日、東京10:12発ののぞみ23号は、京都駅でのドア点検の影響を受けて13:30頃岡山駅に到着しました。

 

13:38にやくも14号が到着。381系4両編成です。

 

折り返し、14:05発のやくも15号になります。

国鉄色スーパーやくも色など歴代の塗装が復刻されている中、この編成はノーマルなゆったりやくも色。

 

2021年3月のダイヤ改正以降、定期運用を持つ唯一の国鉄型特急電車です。リニューアルされているものの、国鉄らしい無骨さが隠し切れません。

4両編成とはいえ乗車率は80%ほど。中途半端な時間ですが、根強い需要が感じられます。

 

伯備線に入り、岡山平野を抜け、高梁川がつくる谷が険しくなるとトップスピードを出すことは難しく、加速と減速を繰り返します。

更に行き違いのための運転停車も。それでも、倉敷から米子までの表定速度は70km/hに迫りますので、振り子式の面目躍如という感じでしょうか?

 

273系も「車上型制御付自然振り子方式」という振り子式が採用されています。空気バネ式車体傾斜機構をもつJR四国8600系を借りて試験を実施したりしていましたが、山岳路線への採用は難しかったようです。

 

16:44着の松江で下車しました。

 

 

 

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