前日飲み会だったため目覚ましをかけずに寝たのですが、朝早く目が覚めてしまったのでお出かけすることにしました。
松戸8:31発の電車に乗り、我孫子、成田と乗り継いで、下総神崎駅に降り立ちました。
10:30発の桜東バスに乗り換えます。
翌3月17日は、酒蔵まつりでバスが運休するとのこと。危ないところでした。
バスに揺られること約40分。旧江戸崎町の中心部に近い浜町というバス停で下車しました。
乗り換えのバスまで1時間半ほどあるので、その間に江戸崎城跡を散策します。
江戸崎城は、稲敷台地の南端、舌状に張り出した台地につくられ、麓に水堀を巡らした連郭式の城でした。現在、水堀はすべて埋められてしまっていますが、ところどころに遺構が認められます。
戦国時代は美濃の守護土岐氏の一族、土岐原氏の支配下にあったものの、小田原の役の年に佐竹氏の攻撃を受け落城。
その後、江戸崎城には佐竹義重の次男芦名盛重が入ります。現在の町割りはこの時に整えられたようです。
江戸時代に入るとこのあたりは天領となり、江戸崎城も廃城になった由。
まず向かったのは瑞祥院。臨済宗妙心寺派の寺院で、創建は南北朝時代の1352年と伝わります。
本堂背後の山は羅漢山と呼ばれています。尾根状になっており、いかにも城跡っぽい地形ですが、後世の改変が著しい中、どこまで旧状を残しているのかよくわかりません。
尾根の先端部には金比羅堂。物見櫓のようにも見えます。
南側の鹿島神社は二の丸跡です。
北側に巨大な土塁が残っています。
二の丸の南半分は江戸崎小学校の校庭になっています。
江戸崎小学校。二の丸があった台地を造成してつくられました。
校舎より高い校庭がかすかな名残です。
そして、最後に本丸へ。
かつての堀底が道路になっています。
本丸の南側の曲輪です。
縄張図によっては二の丸と記載されているものもありますが、台地の先端部を守る笹曲輪とでも呼ぶべき曲輪かと思います。
本丸は方100mほどでしょうか。
中央には畑があってなんとなく私有地っぽい雰囲気。北側には土塁が残っているようですが、深入りはしないようにしました。
そして、片隅には城山稲荷がありました。
朽ちてなくなってしまいそうな小さな祠ですが、由来を見ると意外に歴史があるみたい。
かつては山麓部を水堀が囲んでいたようですが、すべて埋められているほか、各曲輪も遺構の大部分は消滅しています。
点在する遺構は多くはなく、ゆっくりめぐっても1時間ほど。
次のバスまで時間がありますが、早めにバス停に向かうことにしました。
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