1週間の島根出張を終えて、3月10日は移動日です。
昼過ぎの飛行機を予約していましたので、それまでの間に寄り道しようということで、松江7:24発の鳥取行きに乗車しました。
安来で下車。
8:02発のイエローバスに乗り換えて安来市立病院で下車しました。
今回の目的地は月山富田城です。
外堀となっていた飯梨川は、当時は今より西側を流れていました。
1666年の洪水により河道が変わり、城下町は川の下に。1970年代の河川改修の際に発掘調査が行われ、屋敷や家屋跡や陶磁器などの生活用具が出土、富田川河床遺跡と呼ばれています。
月山富田城は山陰地方の戦国大名尼子氏の主城としてよく知られています。
1565年、毛利氏に包囲され籠城するも、翌年に落城。毛利氏のものとなります。
1600年には毛利氏に代わって堀尾氏が入ります。1611年に松江城に移るまで出雲・隠岐23万5千石の主城として使われました。
現在の姿は堀尾氏の改修によるもの。尼子氏時代からかなりの曲輪が放棄されたようですが、それでも山麓から山上まで全山を要塞化した巨大さに圧倒されます。
安来市立歴史資料館の裏手から登ります。
谷筋を登る道は両側の曲輪から常に挟撃されており、防御力の高さに圧倒されます。
北側に突出した馬乗馬場と呼ばれる曲輪です。遠くに中海を望みます。
馬乗馬場から、千畳平を見たところ。
近年の遺跡整備のおかげで、切岸と腰曲輪がよくわかります。
千畳平。城の正面にあたり、見栄えも考慮されたのか堀尾氏時代に石垣が築かれました。
太鼓壇には山中鹿介幸盛の銅像があります。逆光で真っ黒ですが。。。
1569年、尼子氏の再興のため挙兵。尼子氏の旧臣を集めつつ月山富田城を攻め、一時は出雲全域まで支配地域を広げるものの敗北しました。
その後、織田軍の傘下に入って上月城に拠るなど活動を続けますが、毛利軍に降伏。毛利輝元の下に移送中の1578年に謀殺されました。
「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話が有名で、「修身」の教科書に必ずとりあげられていました。
奥書院。戦没者慰霊碑が建っています。
花ノ壇には主屋と侍所が復元されています。
そして実質的な本丸であった山中御殿平に到着します。
菅谷口、御子守口、塩谷口といった虎口からの道はすべてここに集約します。
この虎口は菅谷口。
3000㎡を誇る巨大な曲輪で、御殿があった城の中枢です。四方を囲む石垣は堀尾氏時代のものと思います。
北側が大きくえぐられているのは破城の結果とのこと。地形的に巨大な枡形があったのではないでしょうか?
背後には絶壁が立ちはだかり、そこを七曲りと呼ばれる登山道がクネクネと続いています。
高低差は100mくらいはあると思います。実質的には山中御殿平に対する詰の城というべきでしょうか?
近年整備され登りやすくなりました。が、かなりきついです。
登りきった正面には三の丸の石垣。この石垣は山麓からもよく見えました。
足元には山中御殿などこれまでに通ってきた曲輪群。そして広瀬の町並みと、はるか遠くに中海を望みます。
三の丸と一段上がったところに二の丸。
本丸との間には巨大な堀切があります。
そして本丸。月山の山頂で、勝日高守神社があります。
南端から先はすぐに崖。
山中御殿平に戻って、最後に大土塁を見ます。
土塁には虎口があって土橋が続いていますが、わざわざ土塁を切っている割には横矢が甘く不自然。当時は土塁を回り込むように虎口があったのではないでしょうか?
この先も尾根に沿って曲輪が連なっています。
御子守口へ続く谷筋。
歴史資料館を見学したのち、目の前にある月山入口というバス停から11:20発のバスに乗車します。
月山富田城へはこのバス停が至近ですが、バスが来るのは日中のみで本数も少なめ。時間が合わなければ安来市立病院から歩くのが正解のようです。徒歩5分ほどですし。
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