カラフルな世界、モノクロの日常

鉄道、城、サッカーなど、自分が興味を持っていることを思うがままに書いています。yahooブログ終了に伴い、はてなブログに引越ししてきました。

訪城記 ~湯築城~ 【2010.4.30】

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湯築城へは道後温泉駅から歩いていきました。
列車から降りた人はみんな道後温泉本館のほうに向かって歩いていく中、ひとりだけ逆方向に行くことに違和感を感じましたが・・・ま、気にしないことにします。

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湯築城は二重の堀に囲まれています。
外堀に沿って土塁がぐるりと回り、その内側には結構広い敷地が・・・
発掘調査も盛んになされているらしく、その成果が建物の復元という形で表現されています。
土塁の断面展示なんていうのもあってなかなか面白いです。

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城の中心部は独立した山になっており、その山を内堀が囲んでいます。
山はいくつかの削平地があり、一番てっぺんからは松山平野を一望にできます。

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中世の城にしては、求心性のある縄張。それは単純に要害に拠るのではなく、堀をほり、土塁を築いて作られたという人工的な手の加えられ具合にもあらわれています。
公園内には正岡子規の記念館もあり、観光にも悪い環境ではありません。


(注)以下は完全な私の妄想です。何かの史料に基づいているということは一切ありません。悪しからず・・・

湯築城の立地条件が腑に落ちません。
第一に、現在松山城という天下の名城が築かれている平地に屹立する急峻な独立峰があるにもかかわらず、平地のはずれのそれほど高くもなく、急峻ではない丘を選んだのかということ。
第二に、現在湯築城が築かれている丘もあの辺りでは必ずしも最良の土地ではなく、背後にもっと要害が良い丘陵地帯はいっぱいありそうなこと。

勿論いろいろな想定は出来ます。
例えば
松山城が築かれている山は大きすぎて中世期には手が出せなかった(松山城にはあれだけの土木の手が加わっているわけですし)
②最初期には現在よりももっと小さな城であり、その時点では現在の選地が規模に合っていた
③当時はあの辺りで一番大きな町だったと思われる道後温泉の地を押さえようとした。

多分いろいろなことが複合的に絡み合い、総合判断として選地が行われたものと思います。
そういう意味では、あまり問題にすることではないのかもしれません。
でも、弱肉強食のイメージが強い戦国時代にあって、大軍がこもれるわけでもなく、要害でもないこの地に城があるということにやっぱり違和感があります。
固定観念ですかね?

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