カラフルな世界、モノクロの日常

鉄道、城、サッカーなど、自分が興味を持っていることを思うがままに書いています。yahooブログ終了に伴い、はてなブログに引越ししてきました。

訪城記 ~一乗谷朝倉氏遺跡~ 【09.12.29】

越美北線一乗谷駅前は民家数件と畑しかなくて、人っ子ひとりいません。
戦国大名朝倉氏の主邑があった、観光地として一級の場所にも関わらずこれほどまでに人がいないというのはどういうことだ!?
といいつつも、そもそも一乗谷観光に鉄道で行く人なんてほどんどいないですし、なおかつ年末。近くの博物館も休館になっているので人がいないのは当たり前ですね。

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歩き出して約10分。下城戸跡にたどり着きました。
ちょうど一乗谷川が湾曲し、谷が狭くなったところに石垣と堀で筋違虎口が造られています。
数日前に大雪が降ってそのなごりが随所に残っています。しかも道路以外は除雪がされていません。雪をものともせず果敢に突進しましたが、足がズボズボはまりました。

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更に歩くこと10分で朝倉館跡につきます。堀がコの字に掘られ、それが竪堀となって山裾へのびています。堀幅はそれほど広くありません。5m程度でしょうか。
入り口にはお馴染みの唐門があります。一乗谷の象徴的建造物ですが、これは朝倉義景の菩提を弔うために豊臣秀吉が寄進したものだそうです。
※現存する唐門については、江戸時代中期に建て替えられたものらしいです。自分にはよくわかりません。

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その唐門をくぐって中に入ると・・・一面真っ白です。御殿跡の礎石があるらしいのですが、皆目見当がつきません。最低限の除雪はされているものの、遺跡を見学するような環境ではありません。どうりで誰もいないわけだ。

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途をたどって背後の高台に登ります。堀と低い石垣で区切られた削平地がいくつか連なり、そのひとつひとつに庭園が造られています。当時は何かしらの建物があったのでしょうが今は岩から流れ落ちる水の音だけが古を伝えてくれていました。といっても当方、庭園に関しては知識が全くない上に、あまり興味もないので結局スルーすることになりました。

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このまま更に登っていけば一乗山城に行けます。復元図を見ると、畝状竪堀群が見事な壮大な山城だったようです。
今回は雪と日暮れにより登頂は断念です。

一乗谷は中央に一乗谷川が流れる細くのびた谷状の地形です。とはいっても、谷自体は険しいものではありません。そりゃ戦国時代有数の町があったんですから険しすぎたらこまります。
谷の入口には先ほど通った「下城戸」と川の上流側に「上城戸」という虎口が作られています。下城戸は石垣でしたが、上城戸には壮大な土塁と堀が残っています。下城戸が大手で上城戸が搦手という感じだと思います。

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例えていうなら、ちょうどキャンディーの包み紙みたいな感じっていえばいいんでしょうか。
防御に優れているのは直感的には分かりますが、ただ、外部に膨張していくエネルギーに乏しい感じがするのも事実。ここに本拠を構えていること自体が朝倉氏の戦国大名としての限界を示しているのかもしれません。

内には朝倉氏の屋敷はもちろん、かなり大きな城下町があったようです。というより恐らく越前で一番の賑わいだったのでしょう。人口は1万人ともいわれます。当時の日本全体の人口を考えれば相当なものですよね。
そういえば、ちょうど一乗谷川を挟んで朝倉氏館跡の反対側に当時の町並みが復元されています。この復元町並み、お金取るんですね。もっとも、自分が行ったときには当然の如く年末休館でしたが・・・。

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と、ここまで書いたところで、ふと、織田信長が浅井と朝倉に挟み撃ちになっていることをお市の方が小豆の袋を贈ることで伝えたっていう故事を思い出してしまいました。結構有名な話だと思うんですが、これって本当にあったことなのでしょうか!?
・・・閑話休題

徐々に陽が暮れてきて、山肌をなめるように少しずつ雲が降りてきます。
相変わらず人はいません。
少し心細くなってきました。
駅に着いたのは陽が完全に落ちてから。
あたりは真っ暗です。魑魅魍魎が跋扈していそうです。もしかしたら朝倉の怨霊がフラフラしているかもしれません。
待つこと20分。ようやく列車が来ました。列車の灯りがこれほどまでに温かく感じたのははじめてでした。

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