羽田空港7:50のANAで出発。那覇空港には10分遅れの10:50分頃到着しました。
遅延のおかげでモノレールにタッチの差で乗れず、予定していた那覇バスターミナル11:15発のバスに間に合いませんでした。
遅延のおかげでモノレールにタッチの差で乗れず、予定していた那覇バスターミナル11:15発のバスに間に合いませんでした。
旭橋駅でモノレールを降りて、駅前の看板でバス停の場所を確認していると、いきなり地元の人に声をかけられました。
「どこにいきたいの?」
「中城城まで」
「中城城はバスでは無理だ。普天間からタクシーだな。」「車でいくところだよ、あそこは。何でレンタカー借りなかったの?」
…すみません、ペーパードライバーなもので。。。
「どこにいきたいの?」
「中城城まで」
「中城城はバスでは無理だ。普天間からタクシーだな。」「車でいくところだよ、あそこは。何でレンタカー借りなかったの?」
…すみません、ペーパードライバーなもので。。。
那覇バスターミナル11:40発、30番泡瀬東線で出発。1時間強で着いた久場というバス停で下車しました。
公式のホームページだと、中城小学校前というバス停から徒歩50分と書かれていますが、あるサイトで久場の方が近いと書いてあって、実際地図で見ると久場の方が近そうだったので、こちらで下車しました。
公式のホームページだと、中城小学校前というバス停から徒歩50分と書かれていますが、あるサイトで久場の方が近いと書いてあって、実際地図で見ると久場の方が近そうだったので、こちらで下車しました。
バス停から北へ歩いて久場公民館の前を左折します。
あとはダラダラと登り坂が続きます。途中には護佐丸の墓もあります。
結局、30分くらいで到着しました。
早速入場券を買って中に入ります。
すると目の前に、三の郭の石垣が現れました。
死角をなくすように曲がる塁線がとても優美な印象で感動しました。これぞグスクっていう感じです。
早速入場券を買って中に入ります。
すると目の前に、三の郭の石垣が現れました。
死角をなくすように曲がる塁線がとても優美な印象で感動しました。これぞグスクっていう感じです。
入場して最初に通る門は搦手にあたるようで、裏門という名前がついています。
三の郭からの横矢が効いた、守りの堅い城門です。
天井は石を加工したアーチになっています。加工精度の高さに驚きです。
三の郭からの横矢が効いた、守りの堅い城門です。
天井は石を加工したアーチになっています。加工精度の高さに驚きです。
三の郭は行き止まりの郭です。ここから見る二の郭の石垣も同じような曲線となっています。
三の郭を出て北の郭から西の郭へ。このあたりは城壁の崩落が激しく、門も上部のアーチ部がなくなってしまっています。
西の郭から二の郭に登ります。
そして一の郭。正殿があったところで、基壇が残っています。
南の郭へ通じる城門を抜けます。ここは、地盤を掘りぬいて通路を作っています。掘り残した部分があたかも桝形のような空間を作っています。
南の郭は祈りの場として使われていたようで、いくつもの拝所があります。
下の2枚目の写真の城壁に開けられた四角い穴は、狭間だといわれています。以前に写真で見た時よりも崩落が進んでしまっている感じです。
南の郭は祈りの場として使われていたようで、いくつもの拝所があります。
下の2枚目の写真の城壁に開けられた四角い穴は、狭間だといわれています。以前に写真で見た時よりも崩落が進んでしまっている感じです。
南の郭を降りると正門。南の郭から横矢が掛かるようになっているほか、左側の張り出し部には狭間も切られています。
正門前の広場から見た城壁です。天然の地盤の上に巧みに築かれていて、感嘆しました。
ちなみに城壁の下の崖の一部が抉り取られたようにへこんでいますが、ここは鍛冶場跡だといわれています。
ちなみに城壁の下の崖の一部が抉り取られたようにへこんでいますが、ここは鍛冶場跡だといわれています。
余談ですが、反対を向くと、廃墟マニアには有名な中城高原ホテル跡。
何だか由緒ある神殿遺跡みたいな感じです。
何だか由緒ある神殿遺跡みたいな感じです。
話を戻して、先ほどの狭間について―
琉球における鉄砲についての最古の記録は1450年だそうです。
ちょうど中城城が築城された時期と重なります。
また、中城城からは「「火矢(ヒヤー)」の弾丸と思われる石弾と金属弾」が出土しているとのことなので、狭間は鉄砲用と考えてよさそうですが(弓矢用だとすると小さすぎるようです)、戦に使うにしては数が少なすぎる感じです。
もっとも、当時の豪族が大量の鉄砲を所有できたとは思えませんので、実戦用というよりは威嚇用という位置づけで考えた方が実態に近そうに思うのですが、どうでしょうか?
琉球における鉄砲についての最古の記録は1450年だそうです。
ちょうど中城城が築城された時期と重なります。
また、中城城からは「「火矢(ヒヤー)」の弾丸と思われる石弾と金属弾」が出土しているとのことなので、狭間は鉄砲用と考えてよさそうですが(弓矢用だとすると小さすぎるようです)、戦に使うにしては数が少なすぎる感じです。
もっとも、当時の豪族が大量の鉄砲を所有できたとは思えませんので、実戦用というよりは威嚇用という位置づけで考えた方が実態に近そうに思うのですが、どうでしょうか?
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