カラフルな世界、モノクロの日常

鉄道、城、サッカーなど、自分が興味を持っていることを思うがままに書いています。yahooブログ終了に伴い、はてなブログに引越ししてきました。

訪城記 ~田丸城~ 【2024.1.6】

1月6日、9:45に到着した田丸駅は、駅舎の新築工事中でした。



田丸は熊野街道と伊勢本街道の分岐点。交通の要衝になります。

 

そこを押さえる田丸城は、駅から歩いて5分ほど。立派な外堀にぶつかりました。

 

外堀にそって大手口へ。

 

土橋の両側の石垣が残りますが、枡形は失われています。

 

場内に入って右側、村山龍平記念館の背後に、旧三の丸御殿奥書院が保存されています。

維新後農家に払い下げられていたもので、田丸城の郭内にあった建造物の遺構としてとても貴重なものです。

 

傍らにはC58も保存されています。

 

 

田丸城は南北朝時代に築かれたと伝わる平山城

街道の分岐点であり、伊勢神宮至近の要衝として激しい争奪戦が繰り広げられましたが、室町時代以降は北畠氏の居城となりました。

戦国時代に入ると、織田信長の次男、織田信雄が北畠氏に養子に入ったことで、織田氏の勢力下に。

石垣造りの現在の姿は、織田信雄の改修によるものです。

 

大手門の正面にある二ノ門です。

斜面を急坂で登りながら、連続した枡形により180度曲がるという非常に技巧的な虎口です。

 

二ノ門を抜けると三の丸です。御殿の跡地は玉城中学校になっています。

屋根の形が城郭風?

 

中学校を抜けると池が見えてきます。蓮池と名付けられており、縄張上は捨堀ということになるのでしょうか。

 

富士見門。先ほどの奥書院と同様、貴重な郭内建造物の遺構です。

民間に払い下げられていたものを再移築した長屋門で、三の丸と二の丸の間にあったとのことですが、城郭建築というには少し華奢な感じがします。

 

本丸虎口も石垣で固められた枡形虎口です。

二ノ門と同様、高低差をうまく利用した技巧的な虎口で、このあたりに織田信雄の手が入っているように感じます。

 

北の丸。神社が建っています。

 

 

本丸に到着しました。

 

北側には天守台があります。

 

穴蔵を伴っており、三層の天守があったようです。

現在は、足場材を組み、幕を張った簡易的な天守が建っています。現代版一夜城という感じでしょうか?

賛否両論あるかもしれませんが、当時の状況をイメージできるこういったものは個人的には歓迎したいです。

復元は史料の面でハードルが高いですし、費用、時間も膨大なものになります。遺跡の保存と活用の両立という面でもメリットがあるのではないでしょうか?

 

 

二の丸への虎口も土橋に外枡形という厳重な構え。


二の丸の虎口です。

 

本丸下、西側の腰曲輪に降りてきました。

最後に西側斜面をぐるっと巡ります。

先ほどの腰曲輪のさらに1段下になります。

このあたりは織田氏入城前の雰囲気が残っているような感じがします。



駅に戻りました。

 

 

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訪城記 ~名胡桃城~ 【2023.12.1】

小川城を出て、高原の国道を南へ。

 

周囲の山々は、冬支度が進んでいます。

 

道路の交通量は多いですが、歩道が整備されているので安全かつ快適な道中。50分ほどで到着しました。

 

 

城跡に行く前にガイダンス施設に寄り道します。

ここでは、縄張図などの資料をもらえるほか、御城印やスタンプ、最寄りのバス停までの地図やバスの時間も教えてもらえます。


まずは、現在駐車場になっている般若郭へ。

城内最大の郭で、発掘調査の結果建物跡が検出されています。

 

空堀を隔てて二郭、三郭の北側を守る般若郭は、三郭正面の馬出に入る橋を背後から挟撃できる位置にあります。

虎口は西側1か所しかなく、その虎口は三郭から横矢が掛かるようになっており、相互に補う関係。攻撃を受けた際に、お互いの虎口を守るのはもちろん、戦況をみて逆襲部隊を突出させるなど駆け引きすることが可能です。


般若郭をでて、三郭正面の馬出跡にきました。

馬出自体は失われていますが、発掘調査の結果が平面表示されています。かなりコンパクトな馬出です。

 

豊臣秀吉の裁定によって真田氏のものとなった名胡桃城。1589年、沼田城代猪俣邦憲の強襲により落城しました。このことが秀吉の逆鱗にふれ、翌年の小田原攻めのきっかけとなりました。

名胡桃城は何度か縄張の改修が行われているようです。その中には、秀吉の侵攻を想定した北条氏によるものもあるはず。個人的には、小さすぎる馬出に違和感を感じます。このあたりに北条氏の手が入っているような気がします。

 

 

土橋を渡って三郭。

 

空堀越しに般若郭を見たところ。両郭の位置関係がよくわかると思います。

 

二郭へは木橋がかかり、食い違い虎口になっています。

 

事実上本丸として機能していた二郭。中央の通路を挟んで建物が並んでいました。

本郭への虎口も食い違いになっています。

 

巨大な堀切。

 

本郭

 

更に堀切の向こうには笹郭。両側を土塁で挟まれた狭い郭です。

 

笹郭の先端からは崖の下を流れる利根川を見下ろすことができます。

月夜野大橋の向こうが沼田です。沼田城を直接見ることはできないみたいですが、街の灯は視認できたと思います。



城跡を出て後閑駅へ歩いていきます。

 

月夜野ICにつながる月夜野大橋から北を見たところ。

谷川連峰には雪が積もり、冬の装い。

左側の河岸段丘上に名胡桃城があります。

徒歩40分ほどで後閑駅に到着しました。

 

 

名胡桃城は国民的な時代小説である池波正太郎真田太平記』にも登場する著名な城跡ですが、公共交通によるアクセスにはかなり難があります。

オフィシャルには上毛高原から徒歩50分、後閑から徒歩40分です。後閑から沼田に行くバス、上毛高原から猿ヶ京に行くバスを利用すれば1kmくらいは短くなりそうですが、それでも30分以上の徒歩は覚悟する必要があります。

歴史の表舞台に登場し、遺構の保存、整備も良好で、観光地としてのポテンシャルは高いと思うので、せめて土日祝日だけでも公共交通によるアクセスを確保してほしいと思います。

 

 

 

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訪城記 ~小川城~ 【2023.12.1】

12月2日の決戦に備えて、12月1日は有休をとっていました。

静岡のホテルも予約して準備万端だったのですが・・・なぜかフリーになってしまいました。。。

 

せっかく休みを取ったので、上越新幹線に乗車、上毛高原駅に降り立ちました。

 

8時前の高原の駅はピリッとした冷たい空気に包まれていました。体感的に都内とは10℃くらい違う感じがします。

 

この日の最初の目的地は小川城です。

駅から5分程でした。



小川城は利根川がつくりだした河岸段丘にあって、段丘崖と2本の沢に挟まれた要害の地にあります。

段丘面を隔てる堀切は巨大で圧倒されました。

 

堀切は屈曲しており、主郭からは北側が張り出している構造。現在の遊歩道が当時の導入路を踏襲しているとすれば、強力な横矢がかかることになります。

 

主郭は東西に長細い形状。

 

北面にはかすかに土塁のような構造物が。石積みは当時のものでしょうか?

 

主郭を奥へ。

 

段丘の先端部、主郭から2mほど段差がついています。笹曲輪とでも呼ぶべきでしょうか?

 

樹木の間からは崖下に利根川流れが。



現在、主郭のみがのこる小川城ですが、段丘面を横堀で区切って二郭、三郭が広がっていました。

国道の建設と区画整理により遺構はほぼ確認できません。

 

かすかに凹んでいるところが堀跡でしょうか?

 

 

小川城は、1492年に沼田景久によって築城されたと伝わります。その後上杉、北条、真田の三つ巴の争いに巻き込まれますが、最終的には豊臣秀吉の裁定により沼田城とともに北条氏のものとなります。このときに、名胡桃城が真田氏のものとなったことがのちの事件につながりました。

地図を見ると、沼田城と小川城を結ぶライン上に名胡桃城が突出しており、北条氏にとっては目障りな存在だということがよくわかります。

 

このあとは、事件の舞台となった名胡桃城へ向かいます。

 

 

 

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訪城記 ~躑躅ヶ崎館~ 【2023.11.3】

小淵沢駅は観光客でごった返していました。

上下の特急が相次いで到着し、接続する小海線気動車は乗車率100%を越えていたと思います。

 

小海線が発車し静寂が戻った駅で待つことしばし、高尾行き普通列車に乗車しました。

 

甲府で下車し、13:00発のバスに乗り換えます。

 

10分ほどで武田神社に到着。

 

 

「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」と詠んだ武田信玄に象徴される通り、戦国大名となった武田氏は甲斐国内に大規模な城を持たなかったことがよく知られています。

(実際には、要害山城をはじめとする山城を築いていますし、滅亡直前には武田勝頼新府城を築城しうつっています)

代わりに領国経営の中心となっていたのが躑躅ヶ崎館です。現在は武田神社となっており、「武田氏館跡」として国の史跡にも指定されています。

 

観光地としても一級で、正面の鳥居は必ずガイドブックに掲載されるおなじみの風景。

ただ、この入り口は後年につくられたものです。

 

神社の本殿が建つ主郭は内部を土塁で仕切り、東曲輪、中曲輪と分かれていたようですが、改変が著しく、当時の縄張をつかむのは難しい状況です。

 

東側の虎口が大手です。現在は、駐車場の出入り口になっており、車が頻繁に通ります。

車道になったため、虎口は平入りですが、当時は枡形になっていたのでしょうか?

 

大手虎口の前には武田氏滅亡後に築かれた馬出の石垣が復元されています。

武田氏時代は三日月堀を伴った丸馬出があったようです。

 

 

躑躅ヶ崎館は、1582年の武田氏滅亡後も1590年に甲府城が築城されるまで使用され、縄張が変更されています。

また、武田氏時代にも曲輪の増設が行われており、居館という言葉のイメージとは合わない大城郭でした。

 

現在、発掘調査が進み、順次復元、整備されています。

 

主郭北側の隠居曲輪、無名曲輪は発掘調査が進行しており、その成果を踏まえた復元、整備が行われるようです。

 

味噌曲輪。北方にそびえる山に詰城、要害山城がありました。

 

西曲輪の北虎口。武田流の両袖の枡形がよく残っています。

 


西曲輪の南虎口も同様。

 

更に南側には、梅翁曲輪がありました。

南側が緩やかに下っている地形なので、主郭とは高低差があります。

発掘調査の結果に基づき、土塁と堀が復元されています。

 

 

甲府駅武田神社にバスは30分間隔。14:30のバスで甲府駅に戻りました。

甲府駅に近づくにつれて車が増え、5分ほどの遅れで到着。

14:48発の普通列車に早足でのりかえました。

 

 

 

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訪城記 ~谷戸城~ 【2023.11.3】

11月3日は秋晴れの行楽日和でした。

前日に指定券を買いに行ったら、朝一番の特急あずさ71号は満席。

仕方ないので、八王子から座席未指定券で乗車します。

 

大月で下車する人が多く、空席に座ることができました。

 

甲府で乗り換えて、長坂で下車。

特急停車駅は隣駅の小淵沢ですが、北杜市の中心駅ということもあって駅前はこちらの方がにぎやかな感じがします。

 

コミュニティバスに乗り換えて、旧JA大泉支店前で下車しました。

 

 

八ヶ岳の裾野の高原は秋の装い。

緩やかに下っていくと、谷戸城があるポッコリとした小山が見えてきます。

 

谷戸城は、平安時代後期に常陸からうつり、甲斐源氏の祖となった源(逸見)清光の居城と伝わります。

北から南へ緩やかにくだる高原の中に残された流れ山を利用しており、東西南の三方は急峻な崖になっています。

 

唯一地形が緩やかな北側は巨大な堀切で分断されています。

 

城内に入ると、土塁を挟んで、横堀が北面から東面にかけてめぐっています。

縄張図を見ると、この横堀が少し異質な感じがします。天正壬午の乱では北条氏が布陣したとのことなので、その際に改修されたものかもしれません。

 

末端部は竪堀となって斜面を落ちていきます。


横堀の上には四の郭があります。

斜面を低い土塁で囲んでいますが、曲輪内は自然地形そのままで削平は不十分。さらに、先ほどの横堀との間にも緩斜面が残っており、中途半端な印象はぬぐえません。

一説には、造営途中で放棄されたともいわれますが、確かに、未完成だと考えると腑に落ちる気がします。

 

五の郭。東側に張り出しており、何かしらの建物があったようです。

 

五の郭から続く腰曲輪です。

通路として使用されており、四の郭側の土塁は人の動きを城外から隠すためにつくられたものとのこと。

 

二の郭への虎口。

 

山の頂上部には、一の郭とそれを囲む二の郭、三の郭があります。

そして、この城の最も特徴的なのが、二の郭と三の郭。

土塁の内側に堀が掘られているのがとても珍しい。吉野ケ里遺跡や横浜の大塚遺跡のような弥生時代の遺跡では見たことがありますが、中世城郭ではあまり見ない構造です。

土塁を手っ取り早くかさ上げするために掘ったという説があるようですが、だとしても戦闘時には不便だと思います。

 

二の郭側東面の土塁、堀が大掛かりで、城内で最も巨大なもの。

 

一方で、三の郭は土塁、堀とも控えめです。

 

一の郭へ向かおうとしたところで、北杜市防災無線が流れました。

曰く「市内でツキノワグマの目撃情報があり、遭遇しないよう注意しろ」とのこと。

人里の真ん中にあって、周囲の森とは切り離されたところに熊が来る可能性は少ないですが、今年は全国的に熊害のニュースが多いですし、単独行なので何かあった時には屍すら発見されない可能性があります。

気休めかもしれませんが、スマホの音量を最大にして音楽を流すことにしました。。。

 


三の郭と二の郭の真ん中にある一の郭は、土塁に囲まれた丸い形。

東面の土塁が高くなっているのは二の郭と同様です。


南面の腰曲輪に降りてきました。

 

さらに、搦手へ。竪堀のように見えますが、途中で90度折れており、通路としてつくられたもののようです。

 

搦手口。

 

城山の下、西衣川が作る谷との間には六の郭がありました。



バスの時間まで30分ほどあるので、北杜市考古資料館へ。
ここには谷戸城の模型もあります。


11:24発のバスに乗車。小淵沢駅まで行きました。

 

 

 

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