741年の聖武天皇の命により日本各地に建立された国分寺のうち伊予国分尼寺がこの駅の近くにあったと推定されています。
広大な寺域を誇っていましたが、戦乱による焼失と再建を繰り返すなかで縮小していきました。
塔跡が史跡に指定されているほか、流れを汲む法華寺が寺院として存続しているとのこと。
途絶えている国分尼寺が多い中でとても貴重な例だと思います。
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小春日和の誘われてお出かけ。京成臼井駅に降り立ちました。
臼井城は住宅街の中を歩いて15分ほど。
坂が急になってきました。
本丸と二の丸の間にある空堀を利用している駐車場がありましたが、スルーします。
臼井城跡という石柱がある公園入口に到着しました。が、これもスルー。
すぐ横に、二の丸と三の丸を隔てる巨大な空堀が残されています。
藪が茂っており写真ではわかりにくいですが、幅、深さとも申し分なく、見ごたえ十分です。
空堀をわたる車道は土橋になっていますが、これは当時のものでしょうか?
二の丸の土塁の上から横矢がかかるようになっています。
堀を渡った先には太田図書の墓があります。
太田図書が討死したのは1479年のことですが、臼井城はその後何度も合戦の舞台になりました。
一番有名なのは1566年の臼井城の戦いでしょうか。上杉謙信の猛攻に落城寸前になりましたが、最終的には退けることに成功しています。
度重なる合戦の中で徐々に拡張、強化されていく臼井城は想像以上に巨大な城郭でした。占地する舌状台地はかなり巨大で、二の丸の外側には広大な三の丸、さらには、出城とでもいうべき砦群が郭外に築かれていたといいます。
その多くは宅地化により消滅したようですが、臼井田宿内砦はかすかに古の姿をとどめているとのことで、臼井城に行く前に寄り道しています。
場所は京成臼井駅近くの高台にある宿内公園です。
台地の先端を区切る巨大な空堀。
そして本丸も思いのほか広く、砦という間隔を超えた規模感です。
本丸の下にはおいくつかの腰曲輪を伴っていたようですが、藪がひどく判別できませんでした。
臼井城に戻ります。
二の丸は広い芝生の広場になっています。
本丸へ通じる土橋。
左右の堀も立派。先ほどの駐車場がみえます。
本丸。
本丸からの眺望。湖面は印旛沼です。
本丸の北側に降は、腰曲輪に降りていく搦手口があります。地面の高まりから判別するに枡形だったようです。
ちなみに現在の園路と異なっています。本丸への導入としてはおかしくないように見える園路ですが、研究者がつくった縄張図を見ると虎口とはみなしていません。どういう点に着目した判断なのでしょうか?
山を下ります。
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10月29日、夕方から大宮で予定があったので、早めに家を出て寄り道。指扇駅で下車しました。
バスに乗り換えますが、駅の写真を撮っていたら目の前発車してしまいました。
次のバスは20分後。時間がもったいないので歩くことにします。
歩いて15分ほど、馬宮コミュニティセンターのバス停の先を左折すると、目の前に永田医院という診療所があります。
永田陣屋は、江戸時代初期に治水や新田開発で活躍した伊奈忠次が築城したと伝わります。伊奈氏が赤山陣屋を築いて移ったあとは家臣の永田氏の屋敷となり、現在に至ります。
医院の横には立派な長屋門が残っていました。
敷地内には永田氏の子孫が今も居住しているとのことで、長屋門の先には民家が見えました。
長屋門から続く西側の水堀。
北面の空堀は、細くて浅く、堀としては不十分な感じ。かつてはもっと深かったのでしょう。
東側と南側には新興住宅地が迫っています。
県選定重要遺跡であり、長屋門が市指定有形文化財にも指定され、古の雰囲気をよく残している遺跡ですが、個人の住居であるため敷地に中にはいるわけにはいきません。
外周をぐるっとまわったのみですので、見学時間は20分ほどでした。
城跡を個人で所有するのは「城好き」にとっては憧れますが、維持、保存のための苦労はいかばかりのものでしょうか?
時間とコストを考えると気が遠くなってしまいます。
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駅を出て住線路沿いを北へ。
新興住宅地の中を抜けると最初の目的地、坊城館跡です。
発掘調査ののち覆土されています。遺構は平面表示されてはいるものの、雑草が繁茂する普通の空き地のように見え、私のような素人にはなかなかハードルが高い遺跡です。
坊城館跡を含め、この一帯に点在する遺跡は奥山荘城館遺跡として国史跡に指定されています。
構成する遺跡は城館遺跡・信仰関係遺跡・生産遺跡等13か所。中世の荘園の姿を重層的に見ることができる、貴重な遺跡群です。
坊城館からすぐのところにある江上館もそのひとつ。
室町時代に築かれた、中条氏の居館。単郭の方形館にみえますが、南北に副郭を伴っていたようです。
堀を入れて一町四方という大きさは、方形居館の典型のように見えます。このサイズに当時の身分が反映されている、との由。
南側の虎口は橋とずれており、直進できないようになっています。
城門が復元されています。二階門のようですが、2階部分がスカスカで変な感じ。
遮蔽物が無いと防御の用をなしませんが、これは、資料が乏しく復元を見送った結果とのことです。
郭内は、発掘調査の結果が平面表示されています。
周囲を取り巻く立派な土塁の上から。
南東隅の土塁の上には神社があります。隅櫓のように見えてびっくりしました。
遺跡の保存・整備を考えれば移転させるべきなのでしょうが。。。
北側の虎口も同じような構造。復元された城門は2階部がありませんが、考証の結果でしょうか。
北の郭。雑草が繁茂していますが、土塁に囲まれています。
堀は南側以外水がありません。当時は水堀だったのだと思います。
最後に、奥山荘歴史館に寄り道。発掘された遺物などが丁寧に展示されています。入館料100円。
駅に戻って、16:27発の新潟行に乗車。
新幹線に乗り換えて自宅に戻りました。
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