カラフルな世界、モノクロの日常

鉄道、城、サッカーなど、自分が興味を持っていることを思うがままに書いています。yahooブログ終了に伴い、はてなブログに引越ししてきました。

訪城記 ~上田城~ 【2010.3.20】

信州上田といえば真田氏。
2度も徳川軍を撃退したその武勇はあまりにも有名です。
実際、上田駅に降り立ってみると右も左も真田、真田、そして六文銭。「真田幸村公を大河ドラマに」なんていう幟も立てられていて・・・郷土の英雄なんですね。

真田といえば2度にわたる上田合戦。池波正太郎の『真田太平記』を読んで心躍らせたのは自分だけではないはず。
その舞台となったのが上田城です。
尼ヶ淵と呼ばれる千曲川河岸の断崖を背に築かれた梯郭式の縄張をもつ城です。
現在の尼ヶ淵は河道が変わり公園になっているため、要害感は全くありませんが、絵図や模型をみるとかなりの要害だったことがわかります。
とはいっても、縄張は単純で、特徴的なところはあまりありません。それでも、徳川軍と互角以上に渡り合ったわけで・・・真田よ、おぬしなかなかやるなっていう感じです。
(何故か上から目線ですが・・・気にしないでください)

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駅から城のほうに歩いていくと二の丸の東側にでます。
城内との間を空堀が隔てています。いまは遊歩道になっていて堀底を歩くことも出来ます。当時は水堀であったようですが。

実はこの堀の底には上田交通真田傍陽線というローカル私鉄が走っていました。
橋の上からよく見ると、かすかにホームの跡がみてとれます。
因みに橋の下には碍子も残っています。
とはいっても、そういうことに興味と知識がないとわからないですよね。

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二の丸を入ると広い駐車場と博物館や美術館があります。何かのイベントがあったのか袴姿の女性が大勢集まっていてなんだかヘンな雰囲気でした。
そのうしろには北櫓と南櫓という2つの二重櫓とそれにはさまれた復元櫓門が見えます。
飾り破風などはまったくなく下見板張で無骨な外観をしています。
真田氏のイメージにふさわしい・・・

と、ここで我々は冷静さを取り戻す必要があります。
それは
①関が原の後、政庁は城外に移り、上田城は一度破却された。
②破却された上田城を仙石忠政が復興した。
という事実があるからです。
つまり、今見ている上田城は仙石忠政によるものであるからして・・・今までの感動は何だったんでしょう!?
とはいっても、縄張の基本は真田時代と変わっていないはずだし、それ以外も仙石氏が大きく手を入れたとは思えないので、面影は十分に感じられるはずです。
というかそうとでもしないと、上田地域の観光産業は成り立たなくなってしまいます。

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本丸はそれほど広い空間ではありません。中心部には真田神社があります。
北櫓と櫓門と南櫓はちょっとした展示スペースになっていて中を覗くことができます。
あまりにも有名な話ですが、北櫓と南櫓は維新後払い下げられて城下に移され遊郭になっていたとのこと。
上田城に限りませんが、建物の移築にまつわる伝説は数多いもので・・・まったくもって建物の運命というのも数奇なものがあります。

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真田神社の境内を抜けて西側の虎口から二の丸に戻りました。
西櫓が虎口を押さえかなり厳重な感じです。横矢が効く分だけ東虎口より防御性は高いものと思われます。
その後、内堀に沿って入城した東側へ。深くて広い水堀が本丸を囲んでいます。
本丸の北東側は鬼門避けのためへこんでいるのが良く分かります。

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帰りは県立上田高校へ寄り道。
御屋形と呼ばれた藩主の居館があったところで今も表門やそれに続く塀、堀が残っています。
亀が折り重なるようにして甲羅干ししているのが妙に印象的でした。

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