秋晴れとなった、11月3日、どこかに出かけたくて電車に乗りました。
最初は、小田原城をフラフラ散歩しようかと考えていましたが、電車の中でいろいろ考えて方針変更。
早川を渡り、
あとは農道をひたすら登ります。
いつの間にか、かなり標高を稼ぎ、小田原の街が足下に。
駅から45分ほどで無事到着。
検索すると、JR早川駅や箱根登山鉄道入生田駅からのアクセスが記載されていますが、
地図で見る限り、箱根板橋駅からが最も近そう。結果的に正解だったようです。
石垣山城は、豊臣秀吉が小田原攻めに際して築城した陣城。
一夜城の異名がありますが、実際には80日ほどの工事期間だったようです。
この城の存在は北条方の戦意を挫く効果もあったようで、城完成後わずか10日ほどで小田原城開城となりました。
目の前の高石垣は南曲輪のものです。
崩落が進み、周囲に石材が転がってますが、当時は主郭部すべてが石垣で守られていました。
大手口は、南曲輪の石垣に両側を挟まれ、クランク状の枡形となった非常に強固なものです。
石垣が崩れているのでわかりにくいですが。
南曲輪。
本丸に行く前に、西曲輪。
右側の塁線は本丸。突出しているところは天守台でした。
本丸西側の腰曲輪になっているところ。
行き止まりでしたので、引き返します。
本丸の虎口。枡形になっています。
ここまでの険しい地形と比較して本丸の広さに驚かされます。
これだけの平地を作り出すのにどれだけの土木量が必要なのでしょう?
南西隅にある小山は天守台です。石垣が失われていますが、かなり規模が大きい。
当時は5層の天守があったと伝わりますが、果たして。
本丸北側の虎口も枡形になっています。
さらに、小さな曲輪を経由するようになっています。
馬屋曲輪は実質的な二ノ丸。
石垣山城の石垣の崩落が激しいのは、破城の影響というよりは、関東大震災をはじめ何度も遭遇した巨大地震の影響が大きいとのこと。
それでも、井戸曲輪の石垣はよく残っています。
石垣山城の縄張を特徴づける井戸曲輪。石垣に囲まれたすり鉢状の曲輪の底に井戸があります。
湧水を貯めるため、谷を遮ったことでこのような形になったのではないでしょうか?
また、過剰なまでの防御が施されているのは、北条勢が突出してきた場合、主攻の正面になってしまうからだと思います。
築城後すぐに小田原城が開城されたため、この城は実戦を経験しないまま役割を終えました。
その間、秀吉は淀殿を大阪から呼び、茶の湯に興じたりするなど、およそ戦の最中とは思えないようなことが行われていたこともあり
この城は戦を想定していない、「見せるため」の城だという人がいます。
しかし、本当に見せるための城であれば、虎口は複雑である必要はないし、天守はもっと小田原城から見えやすいところに建てられるべきですが、
実際は、虎口は複雑な導入路を持つ枡形が連続しており、天守は最奥部に建てられています。
人の心理に通じている豊臣秀吉が、北条方の心理面を計算していなかったはずはありませんが、
それでも、そのことをもってこの城の戦闘的な面を過小評価するのは間違い。少なくとも、現地に立てば、明確な誤りだと実感できるはずです。
と、こんなことをつらつら考えながら、箱根板橋駅に戻ってきました。
往きは45分ほどかかった道のりも、帰りは25分ほど。下り坂は楽ですが、衝撃が足に蓄積して疲労がたまります。
翌日は筋肉痛になりました。
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