カラフルな世界、モノクロの日常

鉄道、城、サッカーなど、自分が興味を持っていることを思うがままに書いています。yahooブログ終了に伴い、はてなブログに引越ししてきました。

夢の跡 ~夕張市清水沢そぞろ歩き~ 2/2

※昨日の続きです。


旧北炭体育館の交差点を左折すると、目の前に旧炭鉱住宅(炭住)が見えてきます。
画一化された建物が整然と並ぶ姿はとても不思議な風景です。

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道沿いにさらに炭住が続きます。
意外にきれいな建物が多いですが、閉山後に建て替えられたのでしょうか?
幸福の黄色いハンカチ」が頭の中にあるので、少しイメージが違っていました。世間知らずですね。
窓に板が打ち付けられている建物や、人の気配が全くしない建物もかなりあります。実際のところ入居率はどのくらいでしょうか?

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炭住街の一角では、新たな町営住宅の建設も始まっていました。

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炭住街を抜けて夕張川を渡ります。
川の向こうにはズリ山の特徴的な黒い岩肌が見えます。

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川を渡ると夕張市立ゆうばり小学校。2007年3月6日に財政再建団体に指定され事実上財政破綻した夕張市財政再建策の一環として、市内6か所にあった小学校を統廃合して誕生しました。

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道の両側には炭住が続きます。

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そして到着したのが清水沢清陵町。COOPがあって一応街の中心になっているところです。
先の交差点を左折。3分ほどで北炭夕張新炭鉱坑口(通洞口)跡に到着します。

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1975年6月に出炭を開始した夕張新炭鉱。1962年に策定された「石炭合理化大綱」により「ビルド鉱」に指定され、最新の設備を導入した大規模な開発がすすめられた同炭鉱は、石油へのエネルギー転換や安い海外炭の流入により業績が悪化していた北炭の存亡がかかっていました。
メタンなどのガスが発生しやすい夕張にあって夕張新炭鉱も例外ではなく、開山直後から小規模なガス吐出事故や落盤事故が相次いだ一方、生産計画の達成を優先するあまり、その対策は後手に回っていたといいます。

そして、その日がやってきました。

1981年10月16日、大規模なガス突出事故が発生。その後の構内火災により救助隊の二次遭難も出て、最終的には93人もの犠牲者を出すに至りました。

現在の坑口(通洞口)は鉄格子によりふさがれています。これは、「空気が通るように」という遺族の希望によるものだそうです。

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傍らの高台には慰霊碑。犠牲者の氏名が刻まれています。

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「北炭夕張炭鉱㈱夕張新炭鉱」と書かれた看板が遺っています。
側面には「我が新鉱をがっちり守ろう 出稼と保安と生産で」。
今なら「安全第一」と書かれるところかと思いますが―――。当時の状況を考えると何とも言えない気持ちになります。

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北海道炭礦汽船株式会社(北炭)は、北海道で10以上もの炭鉱を経営していた大企業でした。
特に夕張地区では、夕張炭鉱、夕張新炭鉱のほかに、清水沢、真谷地、平和、楓という炭鉱を持ち、電力や水道などのインフラを整備し、10万人を超える人々が夕張に集まる原動力となりました。
1975年頃からは閉山が相次ぎ、夕張新炭鉱の夢も破れた結果、1995年に会社更生法の適用を申請し、事実上倒産しました。
夕張から撤退するにあたり水道や電力などのインフラ設備、鉱員用の住宅などを夕張市が買い取ったとのこと。これが北炭の会社更生の原資になった一方で、その巨額の買取費用は夕張市財政破綻の引き金のひとつになりました。
このあたりの事情は、北海道新聞取材班『追跡・「夕張」問題 財政破綻と再起への苦闘』(2009年、講談社文庫)を読んで初めて知った次第。
現在の夕張市は人口が1万人を割り込んでおり、高齢化率も全国随一になっています。石炭の遺産は有形無形問わず重くのしかかっています。



1888年に坂市太郎が石炭の大露頭を発見してから130年弱。
黒いダイヤを追い求めた者たちの夢の跡。
歴史を背負って今も生きる街、夕張。
戦後日本が歩んできた道、その縮図を見ているかのよう。
札幌に向かうバスの中でなんとも複雑な気持ちになりました。

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