ダラダラと書いてきた夏の旅行話ですが、これが最後です。
復旧に時間がかかっているのは心配ですが、営業している区間はほぼ所定の運転本数が維持されているようで安心しました。
南直方御殿口で下車。
非電化で1時間に1本の運転本数であるにもかかわらず複線です。
運炭列車が行きかっていた往時の隆盛がしのばれます。
運炭列車が行きかっていた往時の隆盛がしのばれます。
駅北側の高台を目指して歩いていきます。
掘底のような道を抜けていきます。
目の前が開けました。
直方市石炭記念館は、明治43年に建てられた筑豊石炭鉱業組合・直方会議所の建物を中心に筑豊炭田についての資料を展示した博物館。
筑豊石炭鉱業組合については、舌禍も多い麻生太郎財務大臣のご実家、麻生グループのHPがわかりやすいと思います。
筑豊石炭鉱業組合については、舌禍も多い麻生太郎財務大臣のご実家、麻生グループのHPがわかりやすいと思います。
まずは別館に入って、入館料100円(安い!)を払います。
すると、すかさずガイドの人が声をかけてきて丁寧な説明をしてくださいました。
・筑豊という地域名は「筑豊石炭鉱業組合」の名称に使われたのが最初。元々は筑前と豊前は別の藩だったので、同じ地域という考え方がなかった。
・この組合は筑豊地域の採炭を統制するために地元資本が作った。財閥は後から加入した。*
・筑豊石炭鉱業組合・直方会議所の建物の2階が会議室になっており、総会ともなると何十人も集まって会議をしていた。
・この博物館には組合の会議の議事録がすべて残っており、とても貴重。ほかの地域にある石炭関係の展示をしている博物館を含めてもこのような資料が残っているところはない。
・筑豊各地にあったボタ山は、その後切り崩されて新幹線や高速道路の建築資材として使われた。才覚のある人は、ボタ山を二束三文で買い、建築資材として売却し、その跡地も有効活用して大儲けした。
・安川や麻生、貝島といった地元資本は、石炭全盛のころから経営の多角化を進め、地元に根付いてきたので、石炭が斜陽化した後も夕張のような悲惨な状態にはならなかった。
・この博物館には山本作兵衛の炭鉱画8枚を収蔵。いずれも本人から直接もらったもの。ユネスコの世界記憶遺産の指定からは外れているので、原画の展示も含め融通がきく。
・今年の秋に国の重要文化財に指定される予定。
・筑豊という地域名は「筑豊石炭鉱業組合」の名称に使われたのが最初。元々は筑前と豊前は別の藩だったので、同じ地域という考え方がなかった。
・この組合は筑豊地域の採炭を統制するために地元資本が作った。財閥は後から加入した。*
・筑豊石炭鉱業組合・直方会議所の建物の2階が会議室になっており、総会ともなると何十人も集まって会議をしていた。
・この博物館には組合の会議の議事録がすべて残っており、とても貴重。ほかの地域にある石炭関係の展示をしている博物館を含めてもこのような資料が残っているところはない。
・筑豊各地にあったボタ山は、その後切り崩されて新幹線や高速道路の建築資材として使われた。才覚のある人は、ボタ山を二束三文で買い、建築資材として売却し、その跡地も有効活用して大儲けした。
・安川や麻生、貝島といった地元資本は、石炭全盛のころから経営の多角化を進め、地元に根付いてきたので、石炭が斜陽化した後も夕張のような悲惨な状態にはならなかった。
・この博物館には山本作兵衛の炭鉱画8枚を収蔵。いずれも本人から直接もらったもの。ユネスコの世界記憶遺産の指定からは外れているので、原画の展示も含め融通がきく。
・今年の秋に国の重要文化財に指定される予定。
説明を聞くことに一生懸命だったので写真は少なめ。
でも、山の中腹に延びている救護訓練坑道については言及したいです。
これは炭坑の事故に対応するため救護隊の養成、訓練を目的としてつくられた設備で、坑内に煙及び蒸気を通し独、英から輸入した救命器を身に着け実戦さながらに訓練を行っていました。
筑豊地区はもとより日本全国の炭鉱から優秀な坑員が派遣されてきたとのこと。
このような施設が直方に作られたことはもとより、その設備が今も残っているということに驚きを感じます。
筑豊地区はもとより日本全国の炭鉱から優秀な坑員が派遣されてきたとのこと。
このような施設が直方に作られたことはもとより、その設備が今も残っているということに驚きを感じます。
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