1590年、豊臣秀吉の小田原征伐の際に、その前哨戦の舞台となった山中城。
東下してくる豊臣軍を食い止めるため、東海道を遮るように曲輪が配されていました。
その縄張と普請は北条流の考え方がいかんなく発揮されていて、しかも、落城後すぐに廃城になったため、遺構がとてもよく残っています。
東下してくる豊臣軍を食い止めるため、東海道を遮るように曲輪が配されていました。
その縄張と普請は北条流の考え方がいかんなく発揮されていて、しかも、落城後すぐに廃城になったため、遺構がとてもよく残っています。
特に、山中城といえば畝堀!
障子堀!!
遺構の保護のため覆土して芝が植えられていますが、当時は粘土層の地面がむき出しで、堀は深く、畝は細くて斜面も急だったとのことです。
余談ですが、堀の中に畝を作るというのは各地にみられた手法みたいで、後北条氏の専売特許ではないようです。それでもこれほど大規模な遺構が見られるのは山中城だけだと思いますが。
余談ですが、堀の中に畝を作るというのは各地にみられた手法みたいで、後北条氏の専売特許ではないようです。それでもこれほど大規模な遺構が見られるのは山中城だけだと思いますが。
そして、城内には大きなため池もあります。
ただ、各曲輪は小さく、削平も十分でないため、傾斜がついています。
これで4千人が籠っていたとはにわかには信じがたいですが、
箱根方の尾根も陣として使用すれば十分可能だと気付きました。
敵の攻め手は一方向しかないのですから。
これで4千人が籠っていたとはにわかには信じがたいですが、
箱根方の尾根も陣として使用すれば十分可能だと気付きました。
敵の攻め手は一方向しかないのですから。
まずは西櫓と名付けられた曲輪。尾根の先端にある馬出曲輪です。
西曲輪からは西櫓への木橋が架けられていました。
かなりの広さを持った曲輪で、三方向を土塁が回っています。
そして元西櫓。縄張を見ると馬出として機能していたようです。
さらに本丸。曲輪内は工事中で土がむき出しになっています。土を触ってみると粘土質でとても滑りやすそう。
本丸内は3段に分かれてますが、どれも削平が十分ではなく、傾斜しています。
本丸内は3段に分かれてますが、どれも削平が十分ではなく、傾斜しています。
最後に北曲輪。本丸北側を防衛する曲輪であり、馬出としての機能も持っています。
国道1号を渡りまして、岱崎出丸の方にも行ってみます。
御馬場曲輪からすりばち曲輪に至るまでいくつかの曲輪が数珠つなぎになっています。
秀吉の侵攻に備えて急きょ作られた出丸で、東海道に横矢がかかる構造となっています。
御馬場曲輪からすりばち曲輪に至るまでいくつかの曲輪が数珠つなぎになっています。
秀吉の侵攻に備えて急きょ作られた出丸で、東海道に横矢がかかる構造となっています。
山中城へは三島駅から元箱根港行きの沼津登山東海バスで行くことができます。
所要時間は約30分。
日中は1時間に1本は走っていますので、利便性は悪くありません。
しかし、国道1号は片側1車線で往来も多く、特に行楽シーズンは渋滞が激しいみたいです。
バス停の時刻表にも「30分以上遅延することがある」と注意書きがありましたが、
実際、散策後に乗車したバスは20分遅れました。
所要時間は約30分。
日中は1時間に1本は走っていますので、利便性は悪くありません。
しかし、国道1号は片側1車線で往来も多く、特に行楽シーズンは渋滞が激しいみたいです。
バス停の時刻表にも「30分以上遅延することがある」と注意書きがありましたが、
実際、散策後に乗車したバスは20分遅れました。
↓よろしければクリックをお願いします。ささやかな励みになりますので。
http://widget.blogram.jp/images/bgButton1_whi.gif
blogramランキング参加中! ←クリックはこちら。
http://widget.blogram.jp/images/bgButton1_whi.gif
blogramランキング参加中! ←クリックはこちら。