カラフルな世界、モノクロの日常

鉄道、城、サッカーなど、自分が興味を持っていることを思うがままに書いています。yahooブログ終了に伴い、はてなブログに引越ししてきました。

札沼線の思い出

札沼線北海道医療大学駅新十津川駅47.6kmの営業運転が、4/17に電撃的に終了しました。
当初の計画は、臨時列車を増発しつつ5/7まで営業を続ける予定でした。
しかし、新型コロナウィルスへの対応ということで、4/24への繰り上げが発表され、さらに4/16になって唐突に4/17運行終了が発表されました。
新型コロナウィルスというのが表向きの理由ですが、廃止になると群がってくる「葬式鉄」を排除したかったというのが本音ではないか、という話もあるようです。

 

 

今回廃止された札沼線の末端部には、3回乗ったことがあります。

 

1回目は、たぶん小学生の時。
滝川駅前で昼食にした記憶があるので、バスで新十津川駅に向かったものと思います。
ただ、肝心の札沼線に乗車した時の記憶は全くありません。

 

 

2回目は2014年8月11日のことでした。
このときは、岩見沢に宿泊後、バスで月形へ出ました。

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月形樺戸博物館に行った後、駅に行くとちょうど新十津川行が来るところでした。
当初の計画では、この列車に間に合うつもりはなく、そのまま札幌に向かう予定でしたが、飛び乗った次第。

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このころはまだ、廃止という話はうわさ以上のものはありませんでしたが、夏休みということもあり、10人ほどの人が乗車していました。

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3回目は、2017年8月10日です。

札幌に宿泊後、今後の運命が定まりつつあるキハ183系オホーツクで滝川へ。

新十津川へは徒歩で向かいました。
(バスもあるのですが、微妙に時間が合わなかった)

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雄大石狩川

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徳富川では、1972年に廃止された線路跡を見ることができました。

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このころは、徐々に廃止が現実味を帯びてきていました。
廃止やむなし、という声と、何とかして活性化しようという動きがせめぎあっていたようにお思います。

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すでに、運転本数は1日1往復にまで削減されていました。

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その時点ですでに鉄道としての使命は終えており、命運は尽きていました。 

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豊ノ島関、ありがとうございました。

元関脇豊ノ島の引退が発表されました。
新入幕の2004年11月くらいからずっと応援していました。
当時は、同時に入幕した琴欧州露鵬と並んで、個性派3人衆という感じで紹介されていました。
その頃は相撲人気が低迷しているころで、升席が一般発売されたり、いす席は当日券が出たりと、観戦のハードルが下がっていましたので、国技館にも足を運びました。
そのたびに豊ノ島の手形色紙を買っていたので、5~6枚はもっていると思います。

 

第二検査出身という小兵でありながら、胸を突き出して両差しをねらうという相撲スタイルが独特でした。
「小兵の戦い方ではない」「これでは大成しない」「もっと頭から当たるべき」という解説者の苦言を何度も聞きました。頭をつける相撲を覚えたらもっと上に行けたかもしれない、とも思います。でもそれはまた別の相撲です。
前さばきが巧みで、どんな態勢からでも両差しになれるうまさがあります。そして両差しになった時の強さは言うまでもありません。特に琴欧州との相性が良かった印象で、両差しからの下手投げで何度も転がしていました。

 

2016年7月の大けがで番付を一気に落とし、関取に戻るまで2年もかかりました。
その間に同世代の引退が続き、いつの間にか大ベテランと呼ばれるように。「ベテランの星」というような扱いを受けるのは、本人の性格に合っていないように思いますが、それでも大けがを乗り越えて土俵に上がり続ける姿は「星」のごとく輝いていました。


引退後は後進の指導にあたるとのことですが、個人的にはYoutubeをやってほしいと思います。異色の経歴、確かな実績、明るい性格、広い交友関係…、かつてはブログ力士として名をはせたこともあるのでITも問題ないはず。
向いていると思うんだけどな。

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豊ノ島引退により、私の中でひとつの時代が終わりました。
実は、10年近く前から大相撲への興味が薄れていましたが、これで完全に一区切りです。
最後に国技館に行ったのは、2012年の夏場所。このころから国技館の雰囲気は変化していました。
良い意味でのおおらかさが消え、全体的にギスギスした空気に。相撲人気が戻ってきてチケットがとりにくくなったこともあって、足が遠のいてしまっています。

 

相撲は、神事、競技、興行という3つの側面があります。かつては、この3つの面が良い感じにミックスしていて、観客を含めた関係者がそこを暗黙の裡に理解し、尊重することでバランスをとってきました。
そのバランスが近年崩れてきているように感じます。力士は競技にこだわり、協会は興行面を重視し、観客はその上に胡坐をかくようになりました。
いろいろな利害が絡む中で、いつしか神事という側面が薄れていってしまっているように思います。
特に最近は、特定の人気力士に対する一方的な声援と、ため息、ブーイング、座布団投げ・・・力士への敬意と節度を欠いた言動が目に余ります。
力士は神事をとりおこなう、神に仕える存在であり、かつ、大きな体と強い力を持っている力士は我々から見れば神に等しい存在です。
そのことを理解していれば、今の国技館の雰囲気はありえないでしょう。相撲好きには耐えられない空間になってしまいました。

 

 

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ちゅうおうだいがく・めいせいだいがく 【駅名しりとり253】

中央大学・明星大学 (多摩都市モノレール

 

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中黒(・)がつく駅名というのは、長らく万座・鹿沢口駅が孤高の存在でしたが、近年、一気に増えた印象があります。
地元の要望だったり、資金拠出の条件になっていたり、観光を意識してみたり、あれやこれやを考えて訳が分からなくなった結果、中黒付きの複合駅名ということに落ち着くのだとは思いますが・・・
この駅も、当初は所在地の地名に由来した東中野駅という仮称が与えられていましたが、その後、紆余曲折があったみたいです。

 

駅名というのは、いろいろな媒体に表記され露出の機会も多いので、いろいろ盛り込みたいという気持ちは理解できないわけではありませんが、結局は所在地の地名をシンプルにつけるのが一番良いと思います。
特に、施設の名前を付けると、その施設が来なかったり、移転したり、廃止になったりするとひどいことになります。都立大学とか、学芸大学とか、女子大とか、行川アイランドとか・・・ね。

 

 

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最後にゆいレール

浦添城からてだこ浦西駅にやってきました。
2019年10月1日に開業したばかりの駅は、ホームと軌道を一体で覆う巨大なドームが印象的。

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ホームの北側には空間があります。留置線を増設する計画でもあるのでしょうか?

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ホームの先には保線基地。この先への延伸計画もないわけではないようです。

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駅を出発すると、トンネルをくぐります。

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急こう配を一気に駆け上がって、浦添前田駅

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この辺りは地形が結構複雑ですが、勾配に強いというモノレールの特性にモノを言わせて、アップダウンを繰り返します。

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経塚駅に到着。

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左に急カーブを取り、山を丸ごと切り抜いたような巨大な切通しを通過します。

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石嶺駅を過ぎ、汀良の交差点を右に曲がると首里駅に到着しました。

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ゆいレールが開業して17年。
軌道系交通機関に永く恵まれなかったため、その先行きを危ぶむような声も開業当初はあったといいます。
しかし、その定時性、安定性が評価され、さらに観光客の利用が伸びたこともあり、その懸念は杞憂に終わりました。
現在は、さらなる増発や3両編成への増結も検討されているといいます。
さらに、昨年の延伸によりその恩恵は浦添市へと広がりました。てだこ浦西駅には高速バスの停留所が開設され、交通の結節点としても機能しています。
さらなる延伸の計画もないわけではないようですが、既設線のルートや速度を考えると、今以上の長距離輸送を担うのは無理があるでしょう。
より広域の輸送を軌道系交通機関に担わせるのであれば、普通鉄道を別途建設する必要があります。そして実際にその構想もあります。
ゆいレール開業前から考えれば、状況はかなり進展しています。ゆいレールの成功により、軌道系交通機関に対する懐疑的な見方は払拭され、その有用性が認識されているというのが大きいことかと思います。

 


牧志駅で下車して、国際通りを散策。平日ですので、観光客は少なめです。

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那覇市歴史博物館に寄り道しました。

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旭橋駅まで歩いて、ゆいレール那覇空港へ。

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16:45のANAで帰宅しました。

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2月8日~10日の沖縄旅行の話はこれで終わりです。
ダラダラ続きましたが、ありがとうございました。

 

 

 

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嘉数から前田へ

伊祖公園を出て、パイプライン通りを北へ。
拡幅工事を行っているようで、至る所で工事中です。
この日は平日。多くの小学生とすれ違いました。

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牧港川を渡ってすぐ右折します。

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住宅街の中の坂道は、抜け道になっているらしく、ひっきりなしに車がやってきます。

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伊祖公園から20分ほどで到着しました。

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嘉数高地は沖縄戦最大の激戦地として有名です。
南下してくるアメリカ軍の真正面に嘉数高地とその北側で谷をつくる比屋良川。
地図を見るだけでも、ここが戦術上の要地であることがわかります。
現在、その高地の一角が嘉数高台公園となって、公開されています。

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しかし、正面の階段の前には、弾痕の残る塀が保存されています。
元々、嘉数の集落に残っていたものを移設保存したものです。

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中腹には陣地壕。

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頂上には展望台があり、アメリカ軍が上陸した北谷の海岸線、そして現在もアメリカ軍が使用している普天間飛行場が一望できます。
当時も、南下してくるアメリカ軍の動きが良く見えたことでしょう。そして今もアメリカ軍の動きがよく見えます。
ここから見える風景の本質は何も変わっていないように思えます。

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展望台の下には、トーチカが残っています。
むき出しになった鉄筋が先頭の激しさを物語っています。
内部はきれいに保たれていますが、若干土に埋まっている感じ。
中に入ることもできそうですが、もちろんやめておきました。

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京都の塔と嘉数の塔。
都道府県の慰霊碑の多くは摩文仁にありますが、
嘉数に配備された第62師団独立混成旅団に京都出身兵が多く、そのほとんどがここで戦死したため京都府の慰霊碑は嘉数に置かれています。

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朝鮮半島出身者を祀った青丘之塔。

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嘉数を出て、当時の戦闘の経過そのままに南下します。
目の前に、前田高地が壁のように立ちはだかります。

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石畳の普天間参詣道。琉球王国時代に、首里から浦添を経て宜野湾に至る街道として整備されたものです。
これだけのものを整備してしまう琉球王国の国力の大きさがよくわかります。

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石畳は牧港川がつくる谷を降りていきます。

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川を石橋で渡り、谷を登ります。

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谷を登りきると、前田高地の高台に突き当たります。要害と呼ぶにふさわしい地形です。
巨大なトーチカに見える浦添ようどれ。ここも戦闘で木っ端みじんに破壊されました。

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一度浦添城まで登ります。
城跡からは、嘉数高台公園の展望台とその向こうの普天間飛行場が一望のもとに。当時は戦闘の様子がよく見えたはずです。

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再び下って、前田高地平和の碑。

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その横にある、壕のような遺構は当時のモノでしょうか?
この辺りは、墓地建設の際の改変が著しいみたいですので、どこまで当時の姿をとどめているかはよくわかりません。

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この先に、為朝岩という特徴的な岩があります。その姿を見たアメリカ軍からはニードルドックと呼ばれていたようです。
その姿を拝みたいと思ましたが、そこに至る道がよくわかりません。
この時はあきらめてしまいましたが、後から地図を見ると、墓地の中を抜けていけば近くまで行けたようです。
(墓地の中に入ってよいのかどうかは何とも言えませんが)

 

再度浦添城に登って、前田高地の北側へ。去年11月に開業したばかりのゆいレールの線路がまぶしいです。

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管理事務所の横を抜けてしばらく行くとカンパン壕があります。
水が溜まっています。中をうかがうことはできません。

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嘉数から前田へ。わずか2kmほどですが、アメリカ軍がこの距離を進むのに1か月近くを要しています。
その間の戦闘の激しさは言うまでもなく、さらには住民にも多大な犠牲が出ました。
この後の戦闘の経過をここで追うことはできませんが、
6月23日の牛島満中将の自決、9月7日の降伏文書調印に至るまで長い戦いが続いていきます。

 

そして、アメリカによる占領。日本復帰を果たすも、現在まで残り続ける基地と在日米軍
終戦から74年を経てもなお、沖縄の戦後は終わっていません。

 

 

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