カラフルな世界、モノクロの日常

鉄道、城、サッカーなど、自分が興味を持っていることを思うがままに書いています。yahooブログ終了に伴い、はてなブログに引越ししてきました。

嘉数から前田へ

伊祖公園を出て、パイプライン通りを北へ。
拡幅工事を行っているようで、至る所で工事中です。
この日は平日。多くの小学生とすれ違いました。

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牧港川を渡ってすぐ右折します。

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住宅街の中の坂道は、抜け道になっているらしく、ひっきりなしに車がやってきます。

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伊祖公園から20分ほどで到着しました。

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嘉数高地は沖縄戦最大の激戦地として有名です。
南下してくるアメリカ軍の真正面に嘉数高地とその北側で谷をつくる比屋良川。
地図を見るだけでも、ここが戦術上の要地であることがわかります。
現在、その高地の一角が嘉数高台公園となって、公開されています。

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しかし、正面の階段の前には、弾痕の残る塀が保存されています。
元々、嘉数の集落に残っていたものを移設保存したものです。

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中腹には陣地壕。

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頂上には展望台があり、アメリカ軍が上陸した北谷の海岸線、そして現在もアメリカ軍が使用している普天間飛行場が一望できます。
当時も、南下してくるアメリカ軍の動きが良く見えたことでしょう。そして今もアメリカ軍の動きがよく見えます。
ここから見える風景の本質は何も変わっていないように思えます。

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展望台の下には、トーチカが残っています。
むき出しになった鉄筋が先頭の激しさを物語っています。
内部はきれいに保たれていますが、若干土に埋まっている感じ。
中に入ることもできそうですが、もちろんやめておきました。

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京都の塔と嘉数の塔。
都道府県の慰霊碑の多くは摩文仁にありますが、
嘉数に配備された第62師団独立混成旅団に京都出身兵が多く、そのほとんどがここで戦死したため京都府の慰霊碑は嘉数に置かれています。

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朝鮮半島出身者を祀った青丘之塔。

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嘉数を出て、当時の戦闘の経過そのままに南下します。
目の前に、前田高地が壁のように立ちはだかります。

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石畳の普天間参詣道。琉球王国時代に、首里から浦添を経て宜野湾に至る街道として整備されたものです。
これだけのものを整備してしまう琉球王国の国力の大きさがよくわかります。

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石畳は牧港川がつくる谷を降りていきます。

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川を石橋で渡り、谷を登ります。

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谷を登りきると、前田高地の高台に突き当たります。要害と呼ぶにふさわしい地形です。
巨大なトーチカに見える浦添ようどれ。ここも戦闘で木っ端みじんに破壊されました。

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一度浦添城まで登ります。
城跡からは、嘉数高台公園の展望台とその向こうの普天間飛行場が一望のもとに。当時は戦闘の様子がよく見えたはずです。

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再び下って、前田高地平和の碑。

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その横にある、壕のような遺構は当時のモノでしょうか?
この辺りは、墓地建設の際の改変が著しいみたいですので、どこまで当時の姿をとどめているかはよくわかりません。

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この先に、為朝岩という特徴的な岩があります。その姿を見たアメリカ軍からはニードルドックと呼ばれていたようです。
その姿を拝みたいと思ましたが、そこに至る道がよくわかりません。
この時はあきらめてしまいましたが、後から地図を見ると、墓地の中を抜けていけば近くまで行けたようです。
(墓地の中に入ってよいのかどうかは何とも言えませんが)

 

再度浦添城に登って、前田高地の北側へ。去年11月に開業したばかりのゆいレールの線路がまぶしいです。

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管理事務所の横を抜けてしばらく行くとカンパン壕があります。
水が溜まっています。中をうかがうことはできません。

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嘉数から前田へ。わずか2kmほどですが、アメリカ軍がこの距離を進むのに1か月近くを要しています。
その間の戦闘の激しさは言うまでもなく、さらには住民にも多大な犠牲が出ました。
この後の戦闘の経過をここで追うことはできませんが、
6月23日の牛島満中将の自決、9月7日の降伏文書調印に至るまで長い戦いが続いていきます。

 

そして、アメリカによる占領。日本復帰を果たすも、現在まで残り続ける基地と在日米軍
終戦から74年を経てもなお、沖縄の戦後は終わっていません。

 

 

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