松戸駅の東側、ペデストリアンデッキの突き当りにあるイトーヨーカドーの背後は高台になっています。
地図で見ると、松戸中央公園や聖徳大学、検察庁や裁判所があるあたり。相模台という名前で呼ばれています。
戦国時代には相模台城という城郭がこの地にあり、1538年の第一次国府台合戦においては、北条方と小弓方が激突し激戦になったといいます。
地図で見ると、松戸中央公園や聖徳大学、検察庁や裁判所があるあたり。相模台という名前で呼ばれています。
戦国時代には相模台城という城郭がこの地にあり、1538年の第一次国府台合戦においては、北条方と小弓方が激突し激戦になったといいます。
そして、1919年(大正8年)、日本唯一の工兵教育を行う学校として、陸軍工兵学校がこの地に開設されました。
工兵というのは、Wikipedia曰く
「工兵(こうへい、英: military engineer, combat engineer, pioneer)は、陸軍における戦闘支援兵科の一種であり、歩兵、砲兵、騎兵に並ぶ四大兵科の一つである。」
「戦闘においては実際に戦う歩兵・戦車・砲兵部隊だけでなく、土木建築などの技術に特化した部隊が求められる。敵の防禦陣地や自然障礙の破壊、野戦築城や道路の建設、爆破工作、塹壕掘り、地雷原敷設などの能力を持つ。」とのこと。
現在の松戸中央公園だけではなく、聖徳大学、松戸第一中学校をも含む相模台全体に広がる広大な校地を有していました。
工兵というのは、Wikipedia曰く
「工兵(こうへい、英: military engineer, combat engineer, pioneer)は、陸軍における戦闘支援兵科の一種であり、歩兵、砲兵、騎兵に並ぶ四大兵科の一つである。」
「戦闘においては実際に戦う歩兵・戦車・砲兵部隊だけでなく、土木建築などの技術に特化した部隊が求められる。敵の防禦陣地や自然障礙の破壊、野戦築城や道路の建設、爆破工作、塹壕掘り、地雷原敷設などの能力を持つ。」とのこと。
現在の松戸中央公園だけではなく、聖徳大学、松戸第一中学校をも含む相模台全体に広がる広大な校地を有していました。
4月14日土曜日、その痕跡をたどりました。夕方から嵐になるという天気予報だったので駆け足です。
イトーヨーカドーを抜けて相模台にあがり、松戸中央公園に入ってみましょう。
まず見えてくるのが、「陸軍工兵学校の碑」。
イトーヨーカドーを抜けて相模台にあがり、松戸中央公園に入ってみましょう。
まず見えてくるのが、「陸軍工兵学校の碑」。
さらに公園を進むと、古めかしいレンガの柱が見えてきます。
正門門柱は門扉こそ失われているものの、重厚なレンガ構造は当時のままです。
なんでも、フランスの意匠を取り入れているとのこと。
門扉が取り付けられていた金具の跡も残っています。
なんでも、フランスの意匠を取り入れているとのこと。
門扉が取り付けられていた金具の跡も残っています。
もう少し、周辺をうろうろしてみます。
上の写真の左手のマンションの横、電柱の根元のところには「陸軍用地」と書かれた境界石が残っています。
台地の東の方に向かってみます。
松戸一中の敷地に沿って進みます。学校の敷地の隅を北の方向にに曲がると台地が終わり下り坂になります。
その坂の途中、中学校の敷地から続く斜面に境界石がありました。
風化してしまったのか、「陸軍」としか書いてありません。
松戸一中の敷地に沿って進みます。学校の敷地の隅を北の方向にに曲がると台地が終わり下り坂になります。
その坂の途中、中学校の敷地から続く斜面に境界石がありました。
風化してしまったのか、「陸軍」としか書いてありません。
ちなみに、中学校の敷地の南面の隅に境界石があったらしいのですが、見逃しました。改めて確認
してくるようにします。
してくるようにします。
こんどは、イトーヨーカドーの北側です。ここには台地を登る階段があります。
その中間あたり、道の両側に境界石があります。
さらに、正面には怪しい構造物。
斜面に埋まるように作られたコンクリートの壁と、重そうな鉄の扉。
扉の上部には空気抜きと思われる穴も確認できます。
このあたりには揮発油庫があったらしいのですが、これがその倉庫でしょうか?
確証はありません。
斜面に埋まるように作られたコンクリートの壁と、重そうな鉄の扉。
扉の上部には空気抜きと思われる穴も確認できます。
このあたりには揮発油庫があったらしいのですが、これがその倉庫でしょうか?
確証はありません。
敗戦から70年以上がたち、街も大きく変化しました。
でも、その痕跡は私たちの身近なところで、今も時を刻んでいます。
でも、その痕跡は私たちの身近なところで、今も時を刻んでいます。
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