カラフルな世界、モノクロの日常

鉄道、城、サッカーなど、自分が興味を持っていることを思うがままに書いています。yahooブログ終了に伴い、はてなブログに引越ししてきました。

訪城記 ~若松城~ 【2015.7.18】

この日は台風が来ていて、天気が良くありませんでした。
雲が速い速度で流れていて、雨が降ったり止んだり。
そんなはっきりしない天気の中、旧三の丸にある県立博物館前のバス停からスタートです。

目の前の土橋を渡って二の丸に入ります。
入って右は伏兵郭。袋小路の隠し曲輪で、北出丸に入る大手口を背後から防御するような位置関係になっています。

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そして、本丸に入る廊下橋。背後には城内随一の高石垣がそびえます。
両側に櫓台が張り出しており、横矢も効いた縄張です。

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橋を渡ると本丸ですが、ここは多聞櫓によって二分されており、まずは帯郭と呼ばれる空間に入ります。左手には石垣が並んでいて、多聞櫓が建てられていました。それらを回り込むように進みます。

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石垣に沿って進むと、天守。本丸の中央に建つ防衛の要です。
先ほど通ってきた廊下橋を破壊してしまえば、敵の侵入は北出丸と西出丸に限定できます。
2つの出丸から入ってくると必ずこの天守に掌握されることになりますので、つくづく絶妙な縄張りだと思います。
天守台の石垣は角度が緩く、反りもありません。その古風な石垣は蒲生氏郷時代の姿をとどめているといわれます。その頃はこの天守台の上に七重の天守が建てられていたとのことですが、その真偽も含めて実態はよくわかっていないようです。
(『鶴ヶ城公式ガイドブック』には七重天守のイメージが載っていますが、層塔型の外観も含めて「少なくともこれはないだろう」って感じです)

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そして、黒金門。
接続する多聞櫓は走り長屋と呼ばれます。

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本丸に入って御殿の玄関があったあたりから見る、天守と走り長屋、鉄門です。走り長屋には窓がありませんが、実際には窓があったとのことです。

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黒金門に接続する南側の走り長屋と干飯櫓です。天守と、天守寄りの走り長屋、鉄門は1965年に鉄筋コンクリート建てで復元されたものですが、南側の走り長屋と干飯櫓は2001年に木造で復元されたものです。

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天守の中を見学。(撮影禁止でしたので、写真はありません。)展示が工夫されていて、とても分かりやすく、面白かったです。
最上階からは若松市街が一望です。城内に目を移せば、虎口を掌握できる縄張の妙を感じることができます。

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天守を出て、茶室「麟閣」。外部に移築されていたものを、1990年に元の場所に再移築したものだそうです。

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そして、若松城には天守のほかに御三階櫓という建物がありました。
天守と違って軍事的な要素がほとんどない数寄屋風の建物で、現在は城下の阿弥陀寺に移築され現存しています。
現在発掘工事中で櫓台は見る影もありませんでした。将来は復元(それが阿弥陀寺からの移築になるのかはよくわかりませんが)する計画があるようです。

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帯郭に出て、西出丸へ。現在は駐車場になっています。
さらに西出丸を回り込んで北出丸を通り、大手口に抜けました。

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大手口の前にあるバス停からバスに乗り込みました。相変わらず雨は降ったり止んだりです。
阿弥陀寺東というバス停で降りて、寺の中に入るとすぐに御三階櫓がありました。
正面に巨大な玄関が付いた三階建ての建物です。玄関正面には葵の御紋が輝いています。
すぐ横の案内板によれば、移築された際に改変されているとのことで、必ずしも旧状通りというわけではないようです。
ちなみに、この寺には新撰組斎藤一の墓もあります。

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実は若松城は20年ぶりくらいでした。
当時の写真を見るとまだ屋根瓦が黒いです。
赤瓦に葺き替えられたのは2011年とのこと。
加えて、2013年の大河ドラマ『八重の桜』の放送と今年の天守復元50年とイベントが続き、さらなる復元整備計画もあるみたいですので、これからもいろいろ変化がありそうです。



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