1615年の一国一城令は多数の城を廃城に追い込みました。安土桃山時代には3,000以上もあったといわれる城郭が約170になったとのことですから相当なものです。
しかし、金沢藩前田家の金沢城と小松城、秋田藩佐竹家の久保田城と横手城、大館城のように例外が認められた例も多いことから、弾力的な運用がされていたようです。
このような例外事例のひとつが、仙台藩伊達家の重臣、片倉家の居城である白石城です。
しかし、金沢藩前田家の金沢城と小松城、秋田藩佐竹家の久保田城と横手城、大館城のように例外が認められた例も多いことから、弾力的な運用がされていたようです。
このような例外事例のひとつが、仙台藩伊達家の重臣、片倉家の居城である白石城です。
城はJR白石駅の西側にある、独立丘陵の上に築かれています。駅前の通りをまっすぐ進んで突き当りの介護老人保健施設の裏からその丘陵の斜面になります。
裾には水路があって豊富な水が流れています。これは当時の堀の名残でしょうか?
裾には水路があって豊富な水が流れています。これは当時の堀の名残でしょうか?
余談ですが、ここまでの遊歩道には「城来道」という名前が付けられています。「シロクロード」と読むみたいです。
特にコメントはありません。
特にコメントはありません。
坂道を登っていきます。
大手門から本丸に入ります。
この大手一の門、二の門も1997年に木造で復元されたものです。
地形の関係なのか、とても複雑な形の桝形です。
二の門の門扉に殺到する敵兵を背後から狙えるようになっていて、とても巧みな縄張だと思います。
この大手一の門、二の門も1997年に木造で復元されたものです。
地形の関係なのか、とても複雑な形の桝形です。
二の門の門扉に殺到する敵兵を背後から狙えるようになっていて、とても巧みな縄張だと思います。
本丸は一辺100mくらいでしょうか?
その北西の隅に大櫓が建っています。
その北西の隅に大櫓が建っています。
見れば見るほど巨大な櫓です。
天守台いっぱいではなく、余らせて建てられているにも関わらずこの大きさ。五重の天守が建てられるくらいの規模感です。
それでも、戦闘施設としての厳つさをあまり感じないのは、最上階の華頭窓と高欄のおかげでしょうか。
天守台いっぱいではなく、余らせて建てられているにも関わらずこの大きさ。五重の天守が建てられるくらいの規模感です。
それでも、戦闘施設としての厳つさをあまり感じないのは、最上階の華頭窓と高欄のおかげでしょうか。
天守内部に入ってみます。
最上階から白石の街を望みます。
高台に位置している城の位置関係がよくわかります。
高台に位置している城の位置関係がよくわかります。
本丸を出て、石垣に沿って進んでみます。
西側から見た大櫓。
西側から見た大櫓。
さらに進むと、石垣が途切れてしまいます。
本丸の外周は総石垣でしたが、明治以降取り壊されてしまったとのこと。
大櫓の建つ天守台の石垣も復元されたものだそうです。
南側にはすぐそばに学校が建っていて、地形も大きく変わってしまっています。
本丸の外周は総石垣でしたが、明治以降取り壊されてしまったとのこと。
大櫓の建つ天守台の石垣も復元されたものだそうです。
南側にはすぐそばに学校が建っていて、地形も大きく変わってしまっています。
そして、当信寺山門。東口門を移築したものとのこと。
2階部分の目象窓が独特ですが、これは、鐘や太鼓を鳴らして時を知らせる際に音が響くようにと開けられたものとだそうです。
2階部分の目象窓が独特ですが、これは、鐘や太鼓を鳴らして時を知らせる際に音が響くようにと開けられたものとだそうです。
この当信寺には、真田信繁の子、阿梅と次男真田大八と伝わる片倉守信の墓があります。
大坂夏の陣の時、真田信繁は子供たちを片倉家に託しました。このあたりは大河ドラマ「真田丸」にも描かれていたと思います。
左が阿梅、右が片倉守信です。墓石を削って飲むと虫歯に効くという迷信があったため、阿梅の墓の形がすごいことになっています。
大坂夏の陣の時、真田信繁は子供たちを片倉家に託しました。このあたりは大河ドラマ「真田丸」にも描かれていたと思います。
左が阿梅、右が片倉守信です。墓石を削って飲むと虫歯に効くという迷信があったため、阿梅の墓の形がすごいことになっています。
白石駅に戻ってきました。歩き回った時間は2時間ほどでしょうか。
今年の冬は寒くて雪が多いので、雪中行軍になったり、最悪はあきらめるという選択も覚悟していましたが、
この日は晴れて気温も高く、最高の日和でした。
東北本線に乗車。この日は福島に泊まりました。
今年の冬は寒くて雪が多いので、雪中行軍になったり、最悪はあきらめるという選択も覚悟していましたが、
この日は晴れて気温も高く、最高の日和でした。
東北本線に乗車。この日は福島に泊まりました。