2月10日は有給休暇をもらえたので、沖縄に行ってきました。
ここからは、その時の話がだらだら続きます。しばし、お付き合いくださいませ。
2月8日は羽田空港6:40発のANAで那覇空港へ。
気流の関係と空港混雑の影響で20分遅れの到着でした。
すぐのゆいレールに乗車し、奥武山公園駅で下車しました。
沖縄戦の時、県知事だった島田叡の顕彰碑を眺めて、
その目の前にある山下というバス停から10:38発の98番琉大線のバスに乗車しました。
10分弱で宇栄原団地前に到着。
目の前の階段を登ると海軍壕公園の入口はすぐそばです。
ここには、大田実海軍中将を司令官とする沖縄方面根拠地隊の司令部がありました。
戦局が悪化し、陸軍との合流を企図したものの手違いもあって果たせず、この地に孤立するような形になって最期を迎えました。
太田実司令官が最後に送った「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電報が有名です。司令官が自決したのは6月13日だったようです。
海軍慰霊之塔の横には資料館が建っています。
入場料を払って、展示見たのち、壕の中へ。
コンクリートで固められた通路を降りていきます。
壕全長は約450m。そのうち300mが公開されています。
通路は太いところで幅2mほど、細いところは1mありません。
重要なところは漆喰やコンクリートで補強されています。
幕僚が手榴弾で自決した跡が残る、幕僚室。
司令官室。司令官が自決したのはこの部屋だったようです。
壕内は案内の音声がエンドレスで流れています。
勇ましい言葉が並びますが、とても空虚です。
下士官室。この部屋はもとより、通路にまで兵士があふれかえっていたといいます。
外に出ました。光がまぶしいです。
公園内の最高所まで登ってきました。
独立した高台にあるので、眺望がよくききます。
ここからは、北から来る米軍も敗走する日本軍も、南に逃げる住民の姿もよく見えたものと思います。
北側の坑口があったところ。草に阻まれてよくわかりません。
「英霊」とか「玉砕」とか、国のために死ぬことが素晴らしいもののように賛美され、そのことに血が沸くような興奮を感じることがあります。
でも、そんな気持ちになるたびに、自分が恐ろしくなります。
実際の戦争というのは、おそらく、そんな甘いものではなく、もっと凄惨で厳しいもののはずですが、
そのようなものに興奮してしまうというのは想像力が欠如しているせいではないか、と。
「国民の生命、財産を守る」、いつの時代の為政者も言うことですが、古今東西、戦争や軍隊が我々を守ってくれたことがあったでしょうか?
現に沖縄では多くの住民が犠牲になったことはいうまでもなく、旧日本軍が占領地でいろいろ起こしたのも事実だし、空襲で多くの国民が犠牲になったことも忘れることはできません。
さらには現在進行形で同じようなことが世界中で起こっていることを考えると、何を根拠にそれを信じることができるのでしょうか?
端的にいえば、攻撃された時点で我々の生命、財産は損なわれているわけで、その状況に対応するための軍隊というのは、「国民の生命、財産を守る」という名分からみれば、矛盾の産物に他なりません。
攻撃された時点で終わりです。だから攻撃されないように手を尽くすのが為政者の役割であるはずで、いざという時、なんていうよくわからないもののために軍備増強に走るのは自らの能力不足を宣伝しているようなものです。
現実はそんな甘いもんじゃない、という指摘はたくさんあるでしょう。
でも、コミュ力がなく要領の悪い私は、いざという時に真っ先に死ぬタイプなので、戦争になること自体がとても恐ろしい。
そういう状況になるのは絶対いやなんです。
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