備中高梁駅からはバスもあるみたいですが、不定時運行とのことなので歩いていくことにしました。
武家屋敷街を抜けて坂が急になると遊歩道が左に分岐していますので、そこを登っていきます。
歩いて行く人なんてほとんどいないため、人の気配が全くしません。周囲は野生のニホンザルの生息地で、餌をあげるなとか注意せよなんていう看板があちらこちらにたっています。
実際私の眼の前にも1匹迷い出てきて、不思議そうな眼でこちらを見ています。
「よっ」っていう感じで手をあげて挨拶したら、逃げてしまいました。
武家屋敷街を抜けて坂が急になると遊歩道が左に分岐していますので、そこを登っていきます。
歩いて行く人なんてほとんどいないため、人の気配が全くしません。周囲は野生のニホンザルの生息地で、餌をあげるなとか注意せよなんていう看板があちらこちらにたっています。
実際私の眼の前にも1匹迷い出てきて、不思議そうな眼でこちらを見ています。
「よっ」っていう感じで手をあげて挨拶したら、逃げてしまいました。
さらに歩みを進めると、大手門前に到着。
駅から大凡40分かかりました。
狭い山の中であるにもかかわらず、枡形を何とか押し込んでいます。
目の前には岩盤の上に巧みに築かれた高石垣。追手門でもたついている敵に弓や鉄砲を雨あられのように浴びせかけることができます。
ただ、写真にもよく出てくるこの高石垣ですが、土台の岩が崩落の危機に瀕しているようで、いろいろ計測やら対策やらが取られているようでした。
駅から大凡40分かかりました。
狭い山の中であるにもかかわらず、枡形を何とか押し込んでいます。
目の前には岩盤の上に巧みに築かれた高石垣。追手門でもたついている敵に弓や鉄砲を雨あられのように浴びせかけることができます。
ただ、写真にもよく出てくるこの高石垣ですが、土台の岩が崩落の危機に瀕しているようで、いろいろ計測やら対策やらが取られているようでした。
追手門を突破すると三の丸。あまり広くはありませんが、削平された土地にはそこそこの人数を込めることができそうです。
塁線は山肌に沿って折れていますが、ところどころにあった平櫓のところだけはかろうじて長方形の土地を確保しています。
このあたりの塀が全国的にも珍しい現存だそうですが、その時はよく知らなかったので見逃しました。
塁線は山肌に沿って折れていますが、ところどころにあった平櫓のところだけはかろうじて長方形の土地を確保しています。
このあたりの塀が全国的にも珍しい現存だそうですが、その時はよく知らなかったので見逃しました。
二の丸まであがると、写真でよく見る景色。
さらに五の平櫓、六の平櫓の間の門を潜って、本丸に入ると目の前には天守がそびえています。
天守台が岩盤の上に巧みに建てられており、2層2階ですが、想像より大きく見えます。
さらに五の平櫓、六の平櫓の間の門を潜って、本丸に入ると目の前には天守がそびえています。
天守台が岩盤の上に巧みに建てられており、2層2階ですが、想像より大きく見えます。
内部を見学後裏にまわって見ると、これもまた現存の二重櫓があります。
この二重櫓は不思議な造りで、本丸の外と内と両方に入口があります。
資材搬入に便利とか、あるいは外にある井戸へのアクセスに便利なようにとか、いざというときに搦手方向にすぐに逃げられるようにとか、いろいろあるんだと思いますが、どうでしょう?
この二重櫓は不思議な造りで、本丸の外と内と両方に入口があります。
資材搬入に便利とか、あるいは外にある井戸へのアクセスに便利なようにとか、いざというときに搦手方向にすぐに逃げられるようにとか、いろいろあるんだと思いますが、どうでしょう?
今の松山城が築かれているのは小松山とよばれ、その背後には大松山と呼ばれる山が続いています。
中世には大松山がむしろ城の中心として機能していたようですが、近世城郭に生まれ変わるにあたり、大松山の曲輪群は破棄され、その間には堀切が築かれ、現在は橋がかけられています。
堀切はそれほど深いものではありません。5~6mくらいでしょうか。それでも、橋の部分は石垣で固められていますし、そもそも、これだけの深さと幅があれば人が渡るのは不可能ですので十分ですよね。
中世には大松山がむしろ城の中心として機能していたようですが、近世城郭に生まれ変わるにあたり、大松山の曲輪群は破棄され、その間には堀切が築かれ、現在は橋がかけられています。
堀切はそれほど深いものではありません。5~6mくらいでしょうか。それでも、橋の部分は石垣で固められていますし、そもそも、これだけの深さと幅があれば人が渡るのは不可能ですので十分ですよね。
城内を1時間くらいまわって下山しました。
帰りは下りなので、時間はそれほどかかりません。
途中、高梁高校へ立ち寄り。ここは根小屋と呼ばれた山麓の居館部分で、石垣がきれいに残っています。
山城はやはり不便なため、日常の藩政はここで行われていました。山の上の備中松山城はいわば詰の城としての役割だったようです。
帰りは下りなので、時間はそれほどかかりません。
途中、高梁高校へ立ち寄り。ここは根小屋と呼ばれた山麓の居館部分で、石垣がきれいに残っています。
山城はやはり不便なため、日常の藩政はここで行われていました。山の上の備中松山城はいわば詰の城としての役割だったようです。