カラフルな世界、モノクロの日常

鉄道、城、サッカーなど、自分が興味を持っていることを思うがままに書いています。yahooブログ終了に伴い、はてなブログに引越ししてきました。

訪城記 ~人吉城~ 【2010.8.9】

人吉駅から歩いて約10分
球磨川と胸川が合流するところに人吉城があります。
川の水が石垣を洗うように流れ、多聞櫓2棟と海鼠壁の塀があり、ガイドブックなどでよく見る景色に出会えました。

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旧大手門から城内へ。かなり広い空間ですが、もともと武家屋敷が建っていたところ。今は人吉市役所が建っています。この市役所、かなり小さいように感じたのですが気のせいでしょうか。
片隅には人吉城歴史館という博物館があります。中には謎の地下室遺構なんかがあって面白そうですが、あいにくその日は月曜日。自分が行くとよくこういうことがあります。臨時休館とか…本当に多い気がする…

正面に低い石垣が続いています。この内側は御館と呼ばれていて御殿があった由。要は日常の藩庁だったものとおもいます。現在は護国神社が建っています。
神社の横に細い石段があって、登っていくと三の丸にでます。ところでこの登攀ルート、絵図には明確に出てきません。後世に作られたものでしょうか。でも御館から直接城の中枢に上がっていけないというのもなんか変な気がします。実際はどうだったのでしょうか。

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人吉城は南九州特有の群郭式の縄張を持つ城です。人吉城の場合にも中原城上原城と呼ばれる区画が外郭部を形作っています。
群郭式の縄張は各曲輪が並立的であり、優劣が判りにくいです。おそらく武士団の中に明確な優劣があったわけではなく互いに合議し連携することで国を保っていたのだと想像します。目を閉じると甲冑姿の武士が車座になって議論している風景が浮かびます…妄想が過ぎました。端的にいえば、たとえば織田信長のような専制君主というか中央集権的な機構を志向する近世大名では絶対に生まれなかった縄張と言えると思います。
そのため、三の丸、二の丸、本丸のつくりはどこかチグハグです。周囲を石垣で固めているのは近世城郭らしさとはいうものの、三の丸から二の丸への明確なルートが無いなど、中世期そのままになんとか改造して対応してきたのが伝わってきます。主郭への大手にあたる御下門などは立派な櫓門であるにもかかわらず、川に沿った帯曲輪に押し込められています。

三の丸はかなり広い空間。二の丸のそこそこな広さがありますので、山登りをいとわなければ十分な空間。一方で本丸は非常に狭く、中世期の匂いが色濃く残っています。城内の最高所にあたり、立木を取り去れば物見には絶好のポイントになります。たぶん物見櫓なんかが建てられていたのではないでしょうか。立地的に天守を建てたくなりますが、残念ながら天守が建てられた記録はありません。今になってみれば、人吉市の観光産業にとっては残念なことだと思ったり思わなかったり。

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山を下ると御下門。川沿いを西に進むと水の手門につきますが、その手前にある堀合門は近年の復元であるようです。水の手門の向かい側には張出をもつ高い石垣。最初は普通の石垣の上に多聞櫓がてられていたらしいのですが、火災にて焼失。再建するにあたり、幕府への遠慮から建物ではなく石垣を積み増しすることで対応した結果はね出しの石垣が作られた、との現地看板説明ですが、一方で防火のためにあえて建物を避けたという説もありよくわかりません。ただ日本式の城郭では唯一の例なので、希少価値は一級です。

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帰りは水の手橋を渡って、人吉駅へ。先にでた中原城上原城といった中世期の遺構を見に行けば絶対面白いのはわかっていましたが、暑さと荷物の重さに負けました。
人吉駅に着いて5分後、突如バケツをひっくり返したようなゲリラ豪雨に見舞われました。もし人吉城にもう少し長く滞在していたら…我ながら自分の判断を褒めてあげたい気分です。ま、結果論ですが。

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