≪昨日の続きです≫
南西の隅にある天守台に登ってみます。
ここには、一国一城令により廃城となった伏見城の天守が移築されていました。徳川系の城郭によくある、白い層塔型5重5階だったようです。
後水尾天皇が1626年の行幸の際に登ったという記録があり、おそらく天皇が登ったことがある歴史上唯一の天守だと思います。
今と違って当時の京には高い建物はなかったはずですから、とても見晴らしがきいたのではないでしょうか?
現在は天守台のみですので、当時の風景を想像することもままなりませんが、それでも本丸御殿をはじめ城内の様子がよく見えます。
後水尾天皇が1626年の行幸の際に登ったという記録があり、おそらく天皇が登ったことがある歴史上唯一の天守だと思います。
今と違って当時の京には高い建物はなかったはずですから、とても見晴らしがきいたのではないでしょうか?
現在は天守台のみですので、当時の風景を想像することもままなりませんが、それでも本丸御殿をはじめ城内の様子がよく見えます。
本丸を西側に抜けます。
ここまで来ると観光客もまばらになります。
ここまで来ると観光客もまばらになります。
2棟の土蔵がのこされています。
城には食料や武器を保管するための蔵が多数あるのが普通ですが、その割に現存遺構はとても少ないです。
そのため、二条城のそれはとても貴重です。地味な遺構なので、観光客の多くは素通りしていきますが。
城には食料や武器を保管するための蔵が多数あるのが普通ですが、その割に現存遺構はとても少ないです。
そのため、二条城のそれはとても貴重です。地味な遺構なので、観光客の多くは素通りしていきますが。
その他の建物も急ぎ足で見てみましょう。
まずは南中仕切門。食い違い虎口が、二の丸を東西に分けています。
まずは南中仕切門。食い違い虎口が、二の丸を東西に分けています。
本丸櫓門の前を抜けて、鳴子門。二の丸北側から本丸への侵入を防御しており、桃山門と役割は同じですが、四脚門となっており意匠が異なっています。
北中仕切門は南中仕切門と同じ役割で、本丸を挟んで対になる位置に配置されています。
さらには城内から見る北大手門。立ち入り禁止になっていまして、近くまでいけないのがとても残念です。
二の丸御殿の周りにある土蔵やその隙間から覗ける台所も重要文化財です。
今年は大政奉還から150年にあたり、二条城にとっては書き入れ時を迎えています。
いろいろな記念行事も計画されているみたいで、私が行ったときには、展示・収蔵館において二の丸御殿大広間の障壁画の特別公開が行われていました。
大政奉還というと歴史の教科書でしか知らない遠い過去のことのように思えますが、冷静に考えればまだ150年しかたっていません。
ちなみに、徳川慶喜がなくなったのが1913年(大正2年)だそうです。つい最近ですね。
いろいろな記念行事も計画されているみたいで、私が行ったときには、展示・収蔵館において二の丸御殿大広間の障壁画の特別公開が行われていました。
大政奉還というと歴史の教科書でしか知らない遠い過去のことのように思えますが、冷静に考えればまだ150年しかたっていません。
ちなみに、徳川慶喜がなくなったのが1913年(大正2年)だそうです。つい最近ですね。
太平の時代が長く続いた江戸時代と違って、明治維新以降はいろいろなことがありすぎました。