カラフルな世界、モノクロの日常

鉄道、城、サッカーなど、自分が興味を持っていることを思うがままに書いています。yahooブログ終了に伴い、はてなブログに引越ししてきました。

裁判員裁判を思う

裁判員裁判で初めて死刑が求刑され、無期懲役の判決が出ました。
このことについては巷間いろいろ意見が飛び交っているようです。

例えば、私たちは裁判官という専門家が裁判するほうがより適切な判決を出すことが出来ると漠然と信じています。
しかし、裁判員裁判が始まる前の状況を思い出してみると、裁判官の出す判決があまりにも市民感覚と乖離しているとよく指摘されていました。
もちろん、罪刑法定主義の観点から法律を逸脱することは許されません。しかし、法律の源泉はあくまでも市民感覚です。
裁判官は法律の専門家ですが市民の代表ではありません。
市民感覚を発揮することにおいて私たちが職業裁判官より劣っているということはないはずです。

また、死刑をはじめとする刑罰を科すという判断に市民が耐えられるかという問題が提起されることがあります。裏にはそういう重いことを市民に押し付けるのかという素朴な感情があると思われます。
もちろん、裁判員になった人の心のケアは今後の大きな課題といえるでしょう。
しかし、逆に専門家である裁判官は判決の際に心に痛みを感じないのでしょうか。
もしかしたら、そういった心の痛みを私たちは裁判官に押し付けてきただけなのかもしれません。
もちろん慣れということはあると思います。ただ、ヘンな話、そのことに何の痛みを感じることなく職業的に裁いている裁判官がいるとしたら・・・そういう裁判官が行う裁判を私たちは受けたいと思うでしょうか。

裁判員制度に感じる違和感の正体は、私たちが犯罪とか刑罰とか裁判とかというものから目を背け続けていることのあらわれであると思います。
裁判を受けるというのは特殊なこと・・・
犯罪は自分とは別の次元で起きること・・・
犯罪者はどこかゆがんだ私たちとは違う人種・・・
でも、犯罪は私たちが住む街で起きるものだし、犯罪者は犯罪を起こすまでは私たち一般市民の一員でした。
犯罪は好む好まないに関わらず私たちの住む世界で起きているのです。

今まで日本人にとって裁判とはお上から与えられるものでした。
だから、裁判への市民参加ということに対して違和感や拒絶感があるのは否めないところです。
私たちはいろいろな意味で、日本人の歴史上初めての試みに挑戦をしています。
(一応、戦前に陪審制が行われたことはありましたが・・・)
最初はいろいろ試行錯誤もあるでしょう。
ただ、今までの裁判員裁判の経過をみていると、裁判員になった方々は予想以上に冷静かつ真摯な判断をしているように思えます。
裁判員裁判は決して日本人に出来ないことではないと思います。もう少し長い目で取り組んで見ませんか?