カラフルな世界、モノクロの日常

鉄道、城、サッカーなど、自分が興味を持っていることを思うがままに書いています。yahooブログ終了に伴い、はてなブログに引越ししてきました。

訪城記 ~松前城~ 【2013.4.30】

木古内駅からバスで約90分。松城のバス停で降りると松前城は目の前です。
歩いて5分もかからずに沖口門にでます。大手にあたりますが、だいぶ石垣が崩れてしまっており、おまけに草ボーボーです。整備途上という感じです。
天守がすぐそばに見えます。ものすごく小さい城だということがわかります。

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沖口門跡を通ると三の丸に入ります。ここには一番から七番までの砲台があり、海へのにらみを利かせていました。
このうち七番砲台の覆屋が復元されています。現在大砲は置かれておらず休憩所として使用されています。

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二の丸との間には堀があります。ただしドブ程度の幅と深さしかありません。ないよりはましということでしょうか。
また、塁線は複雑な折れを持っており、復元された搦手二の門にも横矢がきくようになっています。
ただ、この搦手二の門がすこしおかしいです。門の目の前に小山があって視界を遮っているのです。
敵の直進を阻み、城内を見通せなくするという点で全く意味がないとは思いませんが、門を防衛するうえで死角が増えてしまうので弊害が多いように思います。もっとも、縄張図にはこの部分を堀として描いているものもあった(ような気がする)ので、実際には違う形だったのかもしれません。
搦手二の門をくぐると目の前に天守がそびえています。ここには二重の桝形があったとのことですが、すべて取り払われてしまっており、面影はありません。

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本丸への入口に入場券売り場があり、天守や本丸御門へはお金を払わないと行けないようになっています。
早速チケットを買って中に入ってみましょう。
中に入るとすぐ地下に潜る道があり、天守へは地下からのアプローチとなります。
当時穴倉があったという話は聞きませんし、ましてやこんな抜け道があったとは思えませんので復元に当たって掘ったものだと思います。
鉄筋コンクリートつくりのため、天守内部は大雑把。また、風雪を考慮した所為かもともと窓が小さくて数も少ないのであまり眺望はききません。

天守を出ると順路は本丸御門へ続いています。
この本丸御門、なんとも不思議な構造をしています。正面から見ると普通の櫓門ですが、屋根が流れているため、本丸側から見ると長屋門のようにみえます。
また、おもったより小ぶりで、特に幅方向が極端にせまく、櫓部分の高さも低く抑えています。

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本丸御門をくぐると天守が横に並んだ写真でもおなじみの風景に出会えました。
石垣は低いですが、亀甲積で隙間なくびっちり積まれています。このあたりの石の加工技術は目を見張るものがあります。
横には本丸御殿の玄関が移築されています。松城小学校の玄関として昭和57年まで使われていたとのことで、現在は北海道の有形文化財に指定されています。中をのぞくと材木などが雑多に詰め込まれていますので、倉庫として利用されているような感じでした。
なお、このあたりの石垣には戊辰戦争時の弾痕がのこっているとのことです。私は見逃しました…

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本丸横の水堀を横目に本丸に回り込みます。当時御殿が立ち並んでいたであろうスペースは一面の芝生になっています。晴れた日に寝転がると気持ちよさそうです。桜まつりに備えて仮設の舞台が作られていました。
さらには松前神社という神社もあります。

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搦手方向に抜けていきます。すると目の前にきれいな杉木立があり、いくつか寺院が集まっています。とてもしっとりとした良い雰囲気です。
でも、城内との間にはちょっとした石垣しかなく、埋められてしまったのか堀(というか溝)すらありません。寺院によって搦手の防御を補っている形ですが、本来であれば尾根続きの搦手にはそれなりに大規模な堀切がないと縄張としては完結しないように思います。そしてこれがウィークポイントととなり、戊辰戦争であっさりと落城してしまうことになるわけです。

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松前城は不思議な雰囲気を持った城です。
日本式の城郭でありながら、塁線は低く抑えられ、高い建物はなく、堀も浅くて幅も狭いです。
従来の、長大な塁線で敵の侵入を阻止するという思想からは根本的に変わってしまっています。
海に向かって砲台が立ち並び、明らかに大砲をどかんどかんと打ち合うような戦いを想定していますが、一方で標的になりやすい天守を建てたりもしています。
城地自体は、海に向かって張り出した高台にあり、西側も東側もなかなか険しい崖になっていますので、それなりの要害の地ではあると思います。
ただ、上記のとおり搦手の防御があまりにも手薄です。いくら海防を意識しているとはいえあまりにも無防備です。
この城の縄張りをしたのがという市川一学という兵学者だそうです。赤穂城なんかもそうですが平和な時代の兵学者っていうのは机上の空論というか、瑣末にとらわれて大局を見れないという根本的な欠点があるように思います。
だからヘンに折れを多用した幾何学的な縄張りをしたりするわけで、ある意味技巧的な部分が見えて面白いところではあるものの、個人的には名古屋城の縄張を持って最良と位置付けていますので、松前城のような縄張はあまり好きになれません。

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