カラフルな世界、モノクロの日常

鉄道、城、サッカーなど、自分が興味を持っていることを思うがままに書いています。yahooブログ終了に伴い、はてなブログに引越ししてきました。

訪城記 ~諏訪原城~ 【2024.10.26】

10月26日、8時40分頃に金谷駅に降り立ちました。

 

隣接する大井川鐡道は1976年に観光用にSLの運行保存・運行を開始したパイオニアで、最近は「ゆるキャン△」の放送により聖地としても注目されるようになりました。

ただ経営が厳しく、設備、車両の老朽化が進み廃止のうわさが以前から絶えない状況。加えて、2022年9月の台風被害により川根温泉笹間渡~千頭が今も不通になっています。

 

 

金谷駅を出て、旧東海道の石畳を登ります。

江戸幕府の命により近隣住民の手により石が敷き詰められたものですが、これは舗装によって失われていたものを1991年に復元したものです。

 

表面が滑りやすく、踏面も一様ではないので、少し歩きにくい。。。

 


金谷駅から25分くらいで諏訪原城に到着しました。


諏訪原城は1573年頃武田勝頼によって築城されたと伝わります。徳川との勢力争いの最前線に位置し、堅城として知られる高天神城への補給及び、大井川西岸の防衛を担いました。

1575年長篠の戦いで武田氏が敗北すると、この城も徳川軍に包囲され、1か月ほどの攻防戦ののち落城します。

その後は徳川氏により牧野城と改称され、改修の手が入ります。現在の姿は徳川時代ということになりますが、武田時代の遺構もよく残っているイメージ。

 

ビジターセンターは10:00開館ですので、先に城跡を巡ります。
まず見えてくるのは、大手曲輪の南側の外堀です。大手曲輪は大手口の前に突出していて、直線的な塁線はこの城においては異質な感じがします。

 

大手曲輪内は茶畑になっています。

 

大手馬出です。樹木に阻まれてわかりにくいですが、堀の幅と深さ、そして丸馬出らしい湾曲した形状がわかるでしょうか?

 

そのまま外堀の縁を北へ進むと、中馬出。近年樹木の伐採が行われ、遺構がよくわかるようになりました。

 

さらに北にある北馬出には、発掘調査に従い薬医門が復元されています。
両側の塀もそれっぽいですが、鉄骨の骨組みにビニールシートを張ったものです。

 

この馬出は、先ほどの中馬出に繋がり、二重の馬出になっています。

2つの馬出を連動させることで、籠城戦の際に細かな駆け引きができそうです。

 

二の曲輪に入ります。

 

曲輪の中央には仕切の土塁があって、曲輪内を2つに分けています。

この土塁の向こう側を三の曲輪と記載している本もあったと思います。

 

本曲輪への虎口。現在は平入ですが、発掘調査の結果、躑躅が崎館のような両袖の枡形があったことがわかっています。

 

本曲輪は二の曲輪側に厚い土塁があるため、2段になっている感じ。

 

本曲輪東側の腰曲輪。

 

牧之原台地の縁にあって標高差が150mほどありますので、大井川から島田方面が良く見えます。

 

 

先ほどの仕切の土塁の南側へ。土塁が見事。

 

二の曲輪からみた大手馬出です。

 

二の曲輪南端には、東内馬出があります。

 

そして、南馬出に繋がります。小ぶりな馬出で、兵を出し入れして、大手馬出に殺到する敵兵の背後をとることができそう。先ほどの北馬出と同じような役割でしょうか?

 


台地の先端部を扇形に囲み、丸馬出設ける縄張り持つ武田系城郭の典型として紹介されることが多い諏訪原城は、樹木の伐採など以降の整備が続けられており、今後は土塁の復元なども予定されています。

しかし、近年の発掘調査の結果により、これまでの定説を覆す発見がありました。これまでは、大手曲輪など徳川氏による改修はあるものの、基本的な縄張は武田時代に成立したものと考えられてきましたが、本曲輪以外、具体的には巨大な二の曲輪の遮断線と馬出のすべてが徳川氏の築造によるものであることが判明したのです。

武田時代の諏訪原城は、現在の本曲輪に出丸をともなった小規模な城郭だったようです。

個人的には、徳川系の城郭で丸馬出を多用するというのはあまりイメージできません。しかし、諏訪原城の発掘調査の結果により、見直しが迫られそうです。

諏訪原城跡発掘調査(平成21年~平成27年) - 島田市公式ホームページ

 

諏訪原城の丸馬出に感嘆し、武田氏のロマンにひたっていた我々は、徳川家康から笑われてしまいますね。

 

 

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