カラフルな世界、モノクロの日常

鉄道、城、サッカーなど、自分が興味を持っていることを思うがままに書いています。yahooブログ終了に伴い、はてなブログに引越ししてきました。

訪城記 ~小坂城~ 【2024.3.16】

江戸崎駅から関東鉄道が運行する稲敷エリア広域バスに乗車。小坂団地で下車しました。

 

小坂団地は1969年頃に造成された大規模な住宅地。約1200の区画に2000世帯が住んでいるとのこと。

ただ休日の昼間のせいか人の姿に乏しく、閉店した商店や空き区画が目立つように感じます。

 

 

小坂城は、そんなニュータウンの東のはずれにあります。

 

小坂城は稲敷台地の南の縁、小野川がつくる段丘崖を利用して築かれた平山城です。

東に小坂の町を臨み、北側を通る鎌倉街道を押さえています。

小坂団地の造成と国道408号線の建設により周辺環境は大きく変化しましたが、遺構がよく残り、現在は公園として整備されています。

 

公園に入ってまず目に入るのは三の曲輪です。

 

二の曲輪への虎口を押さえ、馬出のような構造になっています。

 

東側には四の曲輪です。

三の曲輪との関係性、虎口の構造がよくわかりませんが、台地が続く先には鎌倉街道がありますので、橋頭堡的な役割だったのかもしれません。

 

二の曲輪への虎口。

 

入った正面と右側には一の曲輪の櫓台が張り出しており、虎口を突破した敵に十字砲火を浴びせることができるようになっています。

 

二の曲輪は一の曲輪をL字に囲んでいる城内最大の曲輪です。

 

一の曲輪への虎口は明瞭ではないようです。ただ、櫓台から横矢が掛かる現在の位置に違和感はありません。

橋が架かっていたかどうかは不明確とのこと。ただ毎回堀底に降りるのは不便なので、平時には橋が架かっていたのではないでしょうか?

 

一の曲輪は国道の建設のため1/3程が削られて失われています。

 

先ほどの櫓台の上から虎口をみたところ。

 

小さな城跡ですので、くまなく回っても小一時間ほど。

遺構は明瞭で保存状態もよく、公園としてよく整備されていますので、とても楽しめました。

 

 

 

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訪城記 ~江戸崎城~ 【2024.3.16】

前日飲み会だったため目覚ましをかけずに寝たのですが、朝早く目が覚めてしまったのでお出かけすることにしました。

 

松戸8:31発の電車に乗り、我孫子、成田と乗り継いで、下総神崎駅に降り立ちました。

 

10:30発の桜東バスに乗り換えます。

翌3月17日は、酒蔵まつりでバスが運休するとのこと。危ないところでした。

 

バスに揺られること約40分。旧江戸崎町の中心部に近い浜町というバス停で下車しました。

 

 

乗り換えのバスまで1時間半ほどあるので、その間に江戸崎城跡を散策します。

 

江戸崎城は、稲敷台地の南端、舌状に張り出した台地につくられ、麓に水堀を巡らした連郭式の城でした。現在、水堀はすべて埋められてしまっていますが、ところどころに遺構が認められます。
戦国時代は美濃の守護土岐氏の一族、土岐原氏の支配下にあったものの、小田原の役の年に佐竹氏の攻撃を受け落城。
その後、江戸崎城には佐竹義重の次男芦名盛重が入ります。現在の町割りはこの時に整えられたようです。
江戸時代に入るとこのあたりは天領となり、江戸崎城も廃城になった由。


まず向かったのは瑞祥院。臨済宗妙心寺派の寺院で、創建は南北朝時代の1352年と伝わります。

 

本堂背後の山は羅漢山と呼ばれています。尾根状になっており、いかにも城跡っぽい地形ですが、後世の改変が著しい中、どこまで旧状を残しているのかよくわかりません。

 

尾根の先端部には金比羅堂。物見櫓のようにも見えます。

 

 

南側の鹿島神社は二の丸跡です。

 

北側に巨大な土塁が残っています。


二の丸の南半分は江戸崎小学校の校庭になっています。

 

江戸崎小学校。二の丸があった台地を造成してつくられました。

校舎より高い校庭がかすかな名残です。

 

 

そして、最後に本丸へ。

かつての堀底が道路になっています。

 

本丸の南側の曲輪です。

縄張図によっては二の丸と記載されているものもありますが、台地の先端部を守る笹曲輪とでも呼ぶべき曲輪かと思います。

 

本丸は方100mほどでしょうか。

中央には畑があってなんとなく私有地っぽい雰囲気。北側には土塁が残っているようですが、深入りはしないようにしました。

 

そして、片隅には城山稲荷がありました。

朽ちてなくなってしまいそうな小さな祠ですが、由来を見ると意外に歴史があるみたい。

 

 

かつては山麓部を水堀が囲んでいたようですが、すべて埋められているほか、各曲輪も遺構の大部分は消滅しています。

点在する遺構は多くはなく、ゆっくりめぐっても1時間ほど。

次のバスまで時間がありますが、早めにバス停に向かうことにしました。

 

 

 

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訪城記 ~月山富田城~ 【2024.3.10】

1週間の島根出張を終えて、3月10日は移動日です。

昼過ぎの飛行機を予約していましたので、それまでの間に寄り道しようということで、松江7:24発の鳥取行きに乗車しました。

 

安来で下車。

 

8:02発のイエローバスに乗り換えて安来市立病院で下車しました。

 

 

今回の目的地は月山富田城です。

外堀となっていた飯梨川は、当時は今より西側を流れていました。

1666年の洪水により河道が変わり、城下町は川の下に。1970年代の河川改修の際に発掘調査が行われ、屋敷や家屋跡や陶磁器などの生活用具が出土、富田川河床遺跡と呼ばれています。


月山富田城は山陰地方の戦国大名尼子氏の主城としてよく知られています。

1565年、毛利氏に包囲され籠城するも、翌年に落城。毛利氏のものとなります。

1600年には毛利氏に代わって堀尾氏が入ります。1611年に松江城に移るまで出雲・隠岐23万5千石の主城として使われました。

現在の姿は堀尾氏の改修によるもの。尼子氏時代からかなりの曲輪が放棄されたようですが、それでも山麓から山上まで全山を要塞化した巨大さに圧倒されます。

 

 

安来市立歴史資料館の裏手から登ります。

谷筋を登る道は両側の曲輪から常に挟撃されており、防御力の高さに圧倒されます。

 

北側に突出した馬乗馬場と呼ばれる曲輪です。遠くに中海を望みます。

 

馬乗馬場から、千畳平を見たところ。

近年の遺跡整備のおかげで、切岸と腰曲輪がよくわかります。

 

千畳平。城の正面にあたり、見栄えも考慮されたのか堀尾氏時代に石垣が築かれました。

 

太鼓壇には山中鹿介幸盛の銅像があります。逆光で真っ黒ですが。。。

1569年、尼子氏の再興のため挙兵。尼子氏の旧臣を集めつつ月山富田城を攻め、一時は出雲全域まで支配地域を広げるものの敗北しました。

その後、織田軍の傘下に入って上月城に拠るなど活動を続けますが、毛利軍に降伏。毛利輝元の下に移送中の1578年に謀殺されました。

「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったという逸話が有名で、「修身」の教科書に必ずとりあげられていました。

 

奥書院。戦没者慰霊碑が建っています。

 

花ノ壇には主屋と侍所が復元されています。

 


そして実質的な本丸であった山中御殿平に到着します。

菅谷口、御子守口、塩谷口といった虎口からの道はすべてここに集約します。

 

この虎口は菅谷口。

 

3000㎡を誇る巨大な曲輪で、御殿があった城の中枢です。四方を囲む石垣は堀尾氏時代のものと思います。

北側が大きくえぐられているのは破城の結果とのこと。地形的に巨大な枡形があったのではないでしょうか?

 

背後には絶壁が立ちはだかり、そこを七曲りと呼ばれる登山道がクネクネと続いています。

高低差は100mくらいはあると思います。実質的には山中御殿平に対する詰の城というべきでしょうか?

近年整備され登りやすくなりました。が、かなりきついです。

 

 

登りきった正面には三の丸の石垣。この石垣は山麓からもよく見えました。

 

足元には山中御殿などこれまでに通ってきた曲輪群。そして広瀬の町並みと、はるか遠くに中海を望みます。

 

三の丸と一段上がったところに二の丸。

 

本丸との間には巨大な堀切があります。

 

そして本丸。月山の山頂で、勝日高守神社があります。

 

南端から先はすぐに崖。

 

 

山中御殿平に戻って、最後に大土塁を見ます。

 

土塁には虎口があって土橋が続いていますが、わざわざ土塁を切っている割には横矢が甘く不自然。当時は土塁を回り込むように虎口があったのではないでしょうか?

 

この先も尾根に沿って曲輪が連なっています。

 

御子守口へ続く谷筋。

 

 

歴史資料館を見学したのち、目の前にある月山入口というバス停から11:20発のバスに乗車します。

月山富田城へはこのバス停が至近ですが、バスが来るのは日中のみで本数も少なめ。時間が合わなければ安来市立病院から歩くのが正解のようです。徒歩5分ほどですし。



 

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訪城記 ~天神山城~ 【2024.1.27】

1月27日は夕方から吉祥寺で用事があったので、その前に寄り道。

14時過ぎに仙川駅に降り立ちました。

 

吉祥寺駅行きのバスに乗り換えますが・・・

駅前広場にバス停が見つかりません。

慌ててスマホで調べると、少し離れたところにバス停を発見。

国道20号線を渡って駅から5分ほどかかりました。



新川団地中央というバス停で下車しました。

 

小綺麗な団地が広がります。公園で遊ぶ子供の姿もあり、なかなか活気があります。

 

ここは、仙川がつくる低湿地に囲まれた微高地になっていて、中世には 武蔵七党のひとつ村山党の金子氏の居館があったと伝えられ、また、江戸時代には柴田勝家の孫柴田勝重が旗本として屋敷を構えていたところです。

 

そして、仙川を渡った台地の先端部に天神山城がありました。

 

 

城跡は「新川天神山青少年広場」という公園になっています。

バスを降りてから歩いて10分ほどでしょうか。公園の入口前にはずばり新川天神山青少年広場というバス停があり、仙川駅と三鷹台駅を結ぶバスが通りますが、本数が非常に少ないので注意が必要です。

 

公園化されている台地の先端部は、大きなひとつの曲輪だったように見えます。

ただ、公園を造成する際に改変されている可能性もあるので、当時も同様だったのかは何とも言えません。

 

北東側はわずかですが高くなっています。土塁の跡でしょうか?

 

案内看板によれば、単郭の城だったようです。

戦国時代を通じて使われたとのことですが、仙川の対岸にある鳥屋敷とは時期が重なっているのでしょうか?両者がどのような関係だったのか気になるところです。

 

北西側の斜面は比較的緩やかです。おそらく腰曲輪がもうけられていたものと思います。

仙川は現在の流路より蛇行していて、この斜面の直下を流れていたとのこと。

 

北東側、先ほどの土塁の背後は、堀切になっています。

 

この城最大の見どころでしょうか。わずかに折れを伴っているようにみえます。

単郭の縄張りとすると、虎口はどのあたりにあったのでしょうか?

 

 

小さな城跡ですので、30分もかからず見終えてしまいました。

団地のバス停に戻って、吉祥寺に向かいました。

 

 

 

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訪城記 ~高梨氏館~ 【2024.1.7】

篠島から知多半島にわたった後名古屋で宿泊して、1月7日。

7:00発のしなの1号に乗車します。

 

383系は、量産車の登場から28年ほどたち、車内はだいぶ陳腐化した印象。

昨年385系への置き換えが発表されましたが、運用に入るのは2029年度以降とのことです。

 

10:03長野到着。

 

改札を出て、長野電鉄の地下駅へ。10:26発の信州中野行に乗車します。


地下線を出て進路を東へと変え、千曲川をわたります。
村山橋は、珍しい鉄道道路併用橋。大正時代に架けられた旧村山橋が併用橋として有名でしたが、2008年に開通した新橋も併用橋として建設されました。

 

11:14着の信州中野で下車しました。



この日の目的地は、高梨氏館跡です。

高梨氏館は鎌倉時代から戦国時代にこの地域の有力豪族であった高梨氏の居館と伝わります。

高梨氏がこの地を本拠と定めたのは1512年頃のようです。戦国時代には、越後の長尾為景と守護上杉定実の対立、村上氏との抗争のなかで衰退したとのこと。

武田信玄が北信地域へと進出すると上杉方として戦い、川中島の戦いでは上杉方の先鋒も務めました。

その後、独立を失い上杉氏の家臣に。上杉氏が会津、そして米沢に転封になると高梨氏もそれに従い、子孫は米沢藩士として続きました。

 

東西約130m、南北約100mの方形居館は、虎口が3か所にあります。

下の写真は南側の虎口です。

 

立派な土塁ですが、発掘調査の結果中から築地塀が見つかったとのことです。

当初は土塁は低く、おそらく堀も狭くて浅かったのでしょう。後から堀を拡張し、その時出た土を盛り上げたものと思います。

 

郭内。

 

東の方向を見たところです。

正面の山には詰の城だった鴨ヶ岳城、鎌ヶ岳城がありました。比高300mmほどあるようです。

 

発掘調査の結果建物跡が8棟検出され、平面表示されています。

 

そして、一番の見どころは庭園跡です。

庭石があるのみで水がなく枯山水のような趣ですが、水や樹々を想像すると雅な姿が浮かび上がってきます。

 

 

東側の虎口。

 

虎口を出て館の北側を堀に沿って半周します。

 

西側の虎口です。

 

最後に土塁の上から。

土塁の高さは2mほどあります。



この地域は高梨氏が去ったあと、江戸時代には天領となりました。

西へ300mほどのところに陣屋跡がありますが、市街地に取り込まれわずかに石垣が残るのみ。

趣のある建物は、1936年に中野町役場として建てられたものです。現在は中野陣屋・県庁記念館として使用されています。

 

帰りは中野松川駅まで歩きました。



 

 

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