知覧というと、やはり旧陸軍知覧飛行場とそこから多数出撃した特別攻撃隊の印象がとても強いです。
知覧城内にも防空壕があって、嫌でも戦争のことを思わざるを得ません。
知覧城から知覧飛行場へ。現在は平和公園として整備されているほか、平和公園の周囲には、遺構が散在しています。
まずは、油脂庫。重滑油やグリースを保管していた倉庫です。
壁面には、空襲を受けた際にできた弾痕がのこります。
弾薬庫はグラウンドの隅にありました。
移設されたようで、位置が当時と異なっています。弾痕が生々しい。
知覧飛行場正門跡地には当時の面影を感じるものはありません。
門柱は公園内に保存されています。
給水塔と防火水槽。
グラウンドを回り込んで公園に入ると、一式戦闘機「隼」が展示されていました。
三角兵舎という当時の兵舎を再現した施設。
空襲を避けるため、樹々の中に半地下構造でつくられています。
一通り公園周囲を散策したところで、特攻平和会館にいきます。
ここには特攻隊員たちの遺書や遺品が数多く収集、展示されています。
たまたま小学生の団体と一緒になってしまい、静かに見ることができなかったのが少々残念でした。
特攻・・・はっきりいってこれほど愚劣で無為な作戦はありません。
戦略上敗北が確定しており、しかも物量戦で押しまくられているにも関わらず、
貴重な航空機とパイロットを自らすり減らしていく作戦は矛盾の極みですし、
緒戦は戦果をあげたものの、当然ながら航空機の性能もパイロットの練度も落ち、アメリカ軍の対策が進めば、
投じた人的、物的資源に見合った戦果があげられなくなるのは少し考えればわかる事です。
にもかかわらず、特攻は止まりませんでした。
かなり早い段階から講和が模索されていたことは、歴史が示すところですが
国体護持に固執し、一撃講和が唱えられる中で続けられた戦闘は、言い方を変えれば、指導者層の失敗を隠蔽するための「形づくり」に他なりません。
特攻隊員たちの遺書を見ると、立派で勇ましいことが抑制的に書かれています。
一方で、これは特攻隊員の本心ではない、本当は行きたくなかったし、本当は泣きたかったんだという人もいます。
私は、どちらも本心だったと思います。本当は行きたくない、でも行くからには大儀に殉じたい・・・
人間は死を強制されたとき、そこに意味を見出さざるを得ない生き物だと思います。
でも、彼らが見た大義が虚構だとしたら?
そのことをわかっていた特攻隊員も多かったようです。それでもそれに殉じなければいけなかった・・・その状況はあまりにも悲しすぎます。
特攻は日本史上の汚点です。
その作戦は、論理的にも精神的にも否定しなければいけませんし、戦術上も戦略上も愚策だったと明らかにしなければなりません。
でないと、我々はまた繰り返す。
情報の裏付けも、物資の補給もなく、精神論ばかりを振りかざし戦いを強いる。
都合の悪い事実に目を瞑り、適当なものだけを見て楽観的な見通しを立てる。
行き当たりばったりの作戦で悪戯に前線を振り回し、犠牲だけが増えていく。
新型コロナウィルスへの対応を見ていると、あの時とよく似ているのは気のせいでしょうか?
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